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2008年5月 2日 (金)

和解

神が御子の受苦により、その身代わりの贖罪において、その知らせ(福音)を聞き、承諾する(信仰)場合には、その人の罪を許し、その人と和解する。キリスト教では、そのように教えられている。そこでは、和解は神の側のことであり、人の側では、それを感謝して受け止めるだけだという理解が、そこにはうるように思う。

しかし、神が人と和解するのは一面のこであり、多面では、人が神と和解するのではないだろうか。

「神への信仰は、息子なる神、救済者にして解放者なる神、犠牲と愛の神が存在する場合にのみ可能である。息子なる神の贖罪の受苦は、神が人間と河合することではなくして、人間が神と和解することである。受苦の神のみが、被造物の苦悩と和解しうるのである。純粋な一神教は是認し難い。それは偶像崇拝の最後の形式である」
(ベルジャーエフ著作集8『わが生涯』白水社、239頁)

被造世界の苦悩から、その創造者へ向けられたイワン・カラマーゾフの問いは、正当な問いであり、それは、「受苦の神」において、正しく応えられているのである、と思う。

キリスト教は一神教として、批判される時があるけれど、正しくは三一神教であり、現代的には聖霊の宗教であろう。

一神教には、合理化された宗教という含意を感じるけれど、聖霊の宗教といった場合には、そういう合理化は許されず、絶対無の中での感覚が啓示として問題とされるのだろう。いわゆる、批判の対象とされる一神教というのは、絶対無の中にはない。

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コメント

ベルジャーエフの自伝を読んでいて、私には回心の経験がない、という個所があり、なかなか理解できなかった。

「私がたどってきた精神的道程をかえりみるとき、カトリック教徒およびプロテスタントにとって、中心的意義を与えられて、回心と名づけられる(正教徒によってはほとんどそういうことはない)ものが、私の生涯にはおこらなかったということを、私は告白せざるをえない」(ベルジャーエフ著作集8『わが生涯』白水社、234頁)

創造活動を通して、義認に達するといった個所もある。「…むしろ私の問いは創造による義認の問いである。創造は義認を必要としない。創造が人間を義認するのである」(ベルジャーエフ著作集8『わが生涯』白水社、284頁)

これなど、素直に読めば、彼はペラギウス主義者なのかと思われるかも知れない。しかし、全体的に解釈すれば、もちろん、そうではない。彼の著述の前提には、私の理解では聖霊体験がなければならないのである。だから、回心も新生も、表現はしていないが、なければならないと思う。

彼にとっての、創造活動は聖化の範疇の事柄である。正教会の用語では「神化」という。神化というと、人間の偶像化と思うかも知れないが、そうではなく、聖化のことである。

ということは、ベルジャーエフはキリスト者に向かって語っているのである。聖化とは何か、聖化の道を歩むとは、どういうことか、そういう問題意識を持つキリスト者であれば、彼の本から得るものは多いと思う。ただ、その時、気をつけなければならないのは、義認、新生、聖化、栄化といった用語は使っていないし、栄化を義認と同じに使っているかも知れない個所もあり、用語の意味を考えることも必要かも知れない。

義認とは私の救いのためである。では聖化とは、誰のためであろうか。ここで、「私のため」と答えるのであれば、義認との関係で、別の問いが生まれるであろう。聖化とは、他の人々のため、世界のため、宇宙のため、なのかも知れない。

投稿: | 2008年5月 2日 (金) 17時11分

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