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2008年5月16日 (金)

小野寺功論

『須賀敦子と9人のレリギオ』(神谷光信著、日外アソシエーツ)の中に、小野寺功氏が取り上げられている。

「さて、小野寺の思索はダイナミックな発展というものには乏しい。キリスト教神学の三位一体を西田幾多郎の「場所の論理」によって再解釈するという着想がまずあり、以後の歩みはその論理的精密化に費やされたといってよい」(145頁)

同感である。しかし、それでいいとも思う。哲学の学徒は、自分の哲学を持つべきである。小野寺氏は、単なる紹介に終わる人よりも、哲学の面白みを感じておられるであろう。

小野寺氏は、聖霊に着目しているが、どうしてウェスレーなどへの関心がないのだろうか。そこには、理論としてではなくて、体験としての聖霊論があるのだけれど。

「小野寺は、教理的に父、子、聖霊の順番で考えるのではなく、霊性的自覚から聖霊体験に進み、その後キリストへ、そしてキリストを通して神へ、と上昇していくと説く(『評論 賢治・幾多郎・大拙』)」(147頁)

霊性的自覚というのは、限界状況の自覚であり、大疑の状態であり、真剣に救いを求める心の段階のことであろうか。そして、その後に、「聖霊体験」がきて、「キリスト」がきている。しかし、聖霊体験の前に福音の告知が必要ではないのだろうか。であれば、まず「キリスト」がこなければならないのではないだろうか。その後に、「聖霊体験」ではないのだろうか。

しかし、信仰というものが単なる理性的理解に終わるものではなくて、実存的な理解の深化であるとするならば、その順序を再考することは大切なことと思う。

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コメント

なお、この本の、小野寺氏の項目では、「西田幾太郎」になっていますが、正しくは「西田幾多郎」です。

投稿: | 2008年5月16日 (金) 11時36分

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