« 公会議 | トップページ | 第二の宗教改革 »

2008年5月13日 (火)

日本のカトリック

『日本のキリスト教』(古屋安雄著、教文館)の中に、「日本のカトリック」という項目がある。大変よく、まとまった紹介であり、共感するところが多かった。

この文章に関して、カトリックの人たちは、どういう感想を持つであろうか。

ただ、残念なことは、小野寺功氏の名前がなかったことである。小野寺氏の「大地」思想、「聖霊の神学」は、忘れられることはないであろう。また、これからのカトリック思想の土台を意味するかも知れない、と私は思っているからである。勉強会があれば、私は参加したいと思っている。

小野寺氏は、割合、古くから自らの説を展開しておられるのだが、カトリック世界に、もっと紹介されてもいいような気がする。その本には、プロテスタントの学者も多く登場しており、プロテスタント信仰者の中でも、それほど抵抗感なく、読めるであろう。

古屋氏の紹介文は、第二バチカン後の多彩なカトリック作家らの活動を紹介しているが、「その多くは遠藤との縁でカトリックになったという」(240頁)と書いている。遠藤とは、もちろん、作家・遠藤周作氏のことである。だから、遠藤周作論は、現代日本のカトリックを見るためには不可欠な要素なのである。その遠藤論を、戦前の岩下、吉満らの流れとの間に、対立・断絶のみを見るのか、それとも何かの連続を見るのか、そのあたりが問われるのではないだろうか。「新しき中世」論は、遠藤氏と吉満との対話を読んで、そこに、対立・断絶と連続との両方を見ることができるという視点である。

宗教対話に関しては、こうも言われている。

「またわが国の諸宗教との対話や協力において、カトリック教会の活動はまことに目覚しいものがある。プロテスタントは殆ど参加しないから、カトリックがキリスト教の代表になっている」(246-247頁)

これは、その通りと思う。その原因には、プロテスタントの信仰的要素が働いているのかも知れない。何事も意味が見い出せない場合、動機が形成されないからである。

信条は、「ある時と所で」生まれたものであろうが、その信条を掲げる教会に入る場合には、その信条に拘束されるものである。しかし、時代が変わり、別の場所で、別のニーズがある時、その信条が有効に機能するかどうかといった問題もあろう。

現代のカトリックの宗教対話は第二バチカンの成果なのであろうが、それは、それ以前の立場との断絶ばかりではなく、連続も当然あるのである。しかし、その連続も、現代の光の中から、再吟味、再検討されることを否定はできないであろう。

遠藤氏の問題提起は、第二バチカンに助けられて、現代日本に多くの共鳴者を生み出しているというべきかも知れない。

|

« 公会議 | トップページ | 第二の宗教改革 »

コメント

小野寺氏は、西田幾多郎の最後の作品から、「内在的超越の道」に活路を見い出しておられる。

その逆が、「コンスタンティヌス体制」の神学であろうか。それは、「超越的内在」の道なのであろう。しかし、現実は、そのような国教体制はない。だから、逆をいけばいい。それが、キリスト教問題も視野に入れていた西田の最後の洞察であったのだろうか。

西田哲学をキリスト教側から再考することは、日本のキリスト教の明日に有効な示唆を与えるに違いない、と小野寺氏は考えておられる。そうかも知れない。「内在的超越」の道から、エキュメニズム、諸宗教対話を捉え返すのも、意味あるかも知れない。

投稿: | 2008年5月13日 (火) 16時31分

「大地」思想の中で、遠藤論を考えたら、どうだろうか。遠藤氏の着眼は、信仰における「母なるもの」の重要性の指摘であった。母性原理とも言われた。そして、「大地」は、母なるものを意味するかも知れない。であれば、両者にはつながるものがある。

ところで、「母なるもの」は、「父なる神」と同じ場所にあるのだろうか。遠藤氏が内村鑑三や、ピューリタニズムへの批判として、「母なるもの」を考えた時には、それは、「同じ場所」に思われたのかも知れない。しかし、「大地」思想が妥当すれば、それは地上という場所にあるのではないか。天上には「父なる神」がおられる。そして、天と地が呼応する。そんな信仰形態となるのではなかろうか。ということは、「母なるもの」というのは、人間における限定原理ともいえる。であれば、内村は人一倍、その限定原理を知っていたし、それに生きたのであった。そういう視点に立てば、内村にも「母なるもの」はあった。それは武士道であり、ピューリタニズムであったけれど。「母なるもの」の意識は、信仰における「甘え」的意識を意味するのではなくて、信仰者のおかれた特定の場所を意味するとしたら、遠藤氏の「母なるもの」は、小野寺氏の「大地」思想の中で、再解釈される可能性もある。そして、その再解釈は、割合、面白いのではないかと、思う。

投稿: | 2008年5月14日 (水) 05時22分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 公会議 | トップページ | 第二の宗教改革 »