« 中国 | トップページ | なぞなぞ »

2008年5月 9日 (金)

対話

未知の神 心惹かれる パウロさん
 対話の前に はい、さようなら

アテネのアレオバゴスでのパウロの説教の記事が、使徒言行録17章16-34節に書かれている。

パウロは神について語っているが、やはり最後は復活が問題になったようだ。しかし、未知の神への関心が、パウロに説教を促したのであれば、それは自然神学と啓示神学との対話への試みではないだろうか。

「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」(32節)とある。復活は、十字架の「失敗」を勝利に転換する決め手なのだから、説教の中では、これを語らざるを得ないのだろう。

この説教が無駄だったかと言えば、そうではない。

「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」(34節)とも言われている。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への手紙一、1章22-24節)

パウロはギリシャとの本格的な対話には入らなかった。しかし、その後のキリスト教史はギリシャとの対話の中で形成されていく。その対話を、どう解釈すべきか。拒否すべきなのか、それとも応じるべきなのか。応じた場合には中世が生まれるが、拒否した場合には、どうなるのだろうか。しかし、すべての人への福音であれば、拒否はできないのではないだろうか。

|

« 中国 | トップページ | なぞなぞ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 中国 | トップページ | なぞなぞ »