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2008年5月25日 (日)

新しき中世

ローマ帝国において迫害されていたキリスト教が、やがて公認され、国教となっていく過程を、どのように考えるべきなのだろうか。それは、キリスト教の勝利かも知れないし、そうでないかも知れない。しかし、歴史は、そのように時を刻んでいったのであった。

こうして生まれた中世社会は、ユダヤからは宗教(キリスト教)、ギリシャからは学問、ローマからは政治と法律という三者の融合で形成されていった。ユダヤ(キリスト教)は霊的部分、ローマは肉体的部分、そしてギリシャは精神(知的)的部分を表しているようでもある。人の構成が社会の構成と重なり、それはそれなりに理想的なものが生まれたとも思えるかも知れない。

その中で、ユダヤ(キリスト教)が首位を占めたことで、恐らく、キリスト教的には理想的な社会が出来たのかも知れない。

やがて、16世紀となり、中世社会は崩壊していく。それは近代のスタートでもあったが、そこには、何か、希望と共に、異常なものもあったのかも知れない。

ピューリタンらの倫理には信仰的要素があったが、それが世俗に流れて形成された資本主義社会は競争の社会になった。それは終末を目指していく。そして、戦争の世紀と言われた20世紀がやってきた。それは近代の終末でもあったのだ。

いま、教会は分裂から一致への歩みを模索している。教会の一致が実現していけば、それは社会の中で、再び重要な役割りを占めていくであろう。

21世紀という時代は、古代教会においてキリスト教が勝利していったような、そしてある意味で、千年王国の影であったかも知れない中世社会を生み出していったような、そんな世紀となるのかも知れない。そんな方向性の中で考えるのも面白いかも知れない。「御国の来らんことを」との祈りは、そういう方向を向いているのではないだろうか。

その時、歴史的な西洋中世を単純に範とするのではなくて、その形而上学的原理の永遠性をこそ範として、新しい総合を企画すること、それが第二バチカンの精神に対する一つの応答かも知れない。日本のカトリック者たちの中には、その論理を探している人たちがいるし、中には、もう既に、ある確信を表明している人もいる。今、教会は、教会一致、諸宗教対話を実らせるための、新しい考え方を見出さなければならない。

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