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2008年5月27日 (火)

正統と異端

異端とは何であるのか。こんな記述がある。

「けだし異端は常に一つの部分的真理を全体として高調するため他の部分的真理を否認し、もってカトリック教会に委託せられた全体的啓示の真理を破壊せんとすることにほかならないが、これに対してカトリック教会は異端の高調する部分的真理がすでに全体的啓示の中に、他の部分的真理を排することなく、完全に存立することを指摘し、常に新たに啓示の具体的全体性を宣揚しえたからである。ゆえにカトリシズムの異端に対する勝利は異端の中に存する部分的真理を否認することではなく、かえってそこに存しうる真理の一つの断片をも虚しくせず、それらの悉くを正統教説の全体的真理の立場から正しく再認識し、それらをまったく自己のものとなしえた場合に始めて完結するのである」
(『世紀への展望』松本正夫著、18頁。「マルキシズムとの対決」から)

…我々は古来異端の中に示唆され、また異端を強力ならしめた断片的真理がオルソドックスの全体的真理の中に改めて宣揚されるに到った時、異端が自然に消滅し、あるいは無力化して行った事態、そしてその時にこそ異端がみずからは意識せずして荷わされた一種の摂理的ともいうべき使命を果してしまったのだということを想起しつつ、…
(前同22頁)

著者は、異端の中にも真理契機がある、ということは完全に承認している。しかし、それが正統によって正しく承認されないことが多かったのではないだろうか。あるいは、それが異端に知らされていなかったというべきか。トマスの「神学大全」を読めば、異端との対話が丁寧に展開されている。そのような手続きが必要なのだと思う。

そんな手続きを欠く時、異端は対話拒否の頑なな姿勢を持つようになったのではないだろうか。

これらは、一つの姿勢であろうが、第二バチカン以降は、異端の中にある真理契機を重視するという姿勢に転換したのだと思う。だから、今、異端であることの特徴は「対話拒否の頑なな姿勢」となっているのかも知れない。

「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」(ルカ12章10節)

異端とは、「人の子の悪口を言う者」かも知れない。しかし、彼らは赦されると言われている。では、「聖霊を冒涜する者」とは誰か。「対話拒否の頑なな姿勢」の人たちなのかも知れない。であれば、正統主義者が異端に転換する可能性もあるかも知れない。

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