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2008年5月16日 (金)

伝統の理解

「日本近代のクリスチャニズムを考えるときに、内村鑑三が特筆すべき重要人物であることはいうまでもないが、歴史の定点観測という視点に立つとき、カトリック司祭たちこそそれにふさわしいものではないだろうか。具体的には、太平洋戦争終結までは岩下壮一と吉満義彦(彼は司祭ではないが)、戦後は門脇佳吉、奥村一郎らを取り上げることが適当と思われる。……カトリックもまた二十世紀に大きく変化したが、個人は変わっても、教理は変わらず、日本近代を定点観測する存在として、彼らほど相応しい存在はあるまい。
 少なくとも、カトリシズムというプリズムを通すことにより、これまで見えなかった日本近代思想の諸問題が次々に可視化してくることは明らかと思われる」
(日外選書『須賀敦子と9人のレリギオ』神谷光信著、204-5頁)

私は、岩下壮一、吉満義彦までは同意するが、戦後は、むしろ遠藤周作氏につなげたいと思う。遠藤氏は信徒であったが、吉満も信徒であった。なぜ、司祭でなければならないのだろうか。

もちろん、門脇佳吉、奥村一郎神父らが来るのも、理解できないことではない。第二バチカン後の文化内開花という新しい方針の中での活動が際立っているからであろう。

お二人には、遠藤氏との関係、つながりは、あるのだろうか。遠藤氏であれば、吉満からのつながりがあるのである。「断絶的連続」といったような「絶対矛盾的自己同一的」なつながりがあるので、私としては、むしろ遠藤氏につなげたいのである。その歴史を書くことは面白いことである、と私には思われるのだけれど。

そんな関心は、プロテスタントにとっては、ある意味では、どうでもいいことかも知れない。余り関心はないだろうと思う。しかし、カトリックの中では重要なことで、井上神父の文化内開花の動機はよく分かるのである。

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コメント

『大地の文学』(小野寺功著、春風社)の第三部「現代日本におけるキリスト教」の中に「吉満義彦と遠藤周作をめぐって」という項目があり、重要な問題提起をしているように思います。遠藤さんは、吉満との関係を、ご自分で書かれています。それを、どう読むかが問われていると思います。

投稿: | 2008年5月16日 (金) 19時13分

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