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2008年6月10日 (火)

燃える柴

モーセは、「燃える柴」を見た時、その存在が実存に変わったのである。彼は、日常性をあとにして、山、神の山に登り始めた。その過程が実存の過程である。そして、神の言葉を聴いた時、実存は、その目的を達成した。

実存は、私にとっては、神の言葉を求める人間存在のあり方である。そして、神の言葉を聴く時、実存のあり方を一応終えるのだ。

モーセが「燃える柴」の中から神の言葉を聴いた時、それはモーセにとって、危機的な時であった。不従順の罪に誘惑されつつ、その危機的場所を危うく通り抜けたモーセは、その時、新生を経験したといえるかも知れない。

実存は、日常性の中で、人間の限界を忘れている人々のあり方に対しては、優位に立っている。なぜなら、存在が、そこから支えを受けている意味を、実存は問うからである。しかし、それが魂の運動である限り、一つの静止点、着地点を持たなければならない。

それが瞑想の時、神の言葉を聴く時なのだ。なぜなら、神の言葉を聴いた時、人間の実存という問いのあり方は終わるからである。そこに新生・再生という魂の全く新しい経験がある。それは聖化の発端でもある。

そして、人は、その恵まれたあり方にとどまってもいいのだ。釈迦も、そうしたかった。しかし、そこから、新しい使命が与えられて、釈迦の場合には初転法輪になる。その使命は、もはや自分のためではない。他者のための使命なのだ。聖化の道が、そこから始まる。

ここでの釈迦への言及は不適当かも知れないが、一つの解釈である。釈迦の場合は、禅で、神の山に登り、悟りで新生を得たということであろうか。神の言葉は、耳で聴くのではなくて、魂で聴くということを考えれば、モーセの場合にも、象徴化を許してもいいのかも知れない。

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