« 西田哲学 | トップページ | 新・旧の思想的母体 »

2008年6月 5日 (木)

「地」の意識

小野寺功氏の「吉満義彦と遠藤周作をめぐって」という文章(『大地の文学』収録)は重要な、考えさせられる内容豊かなものであると思う。重要でありつつ、これまで誰も書いてこなかったテーマでもあり、こういう点に無関心な、現代カトリックの意識というものも、私も含めて不思議な気がしている。要するに、「地」を問うことを忘却しているのである。

「昭和のすぐれた知識人でありカトリック思想家であった吉満義彦の問題意識を最も本格的に継承し、それを批判的に展開していったのは、遠藤周作であると考える。また遠藤は、日本ではめずらしく魂の領域に迫った作家といわれるが、それとても吉満が体現していた霊性の優位の思想と決して無縁なものではない。むしろ両者はこの地下茎で驚くほど深くつながっているのである」(243-4頁)

遠藤論はたくさんあるけれど、遠藤と吉満との関係を本格的に論じたのは、これが最初ではないのだろうか。しかも、論旨は明瞭であり、説得的である。

私は、岩下、吉満の「しのぶ会」に参加してきたが、そこでは過去を「しのぶ」だけで、現代につなげるものを見出さなかった。そして、この現代につなげるものが見出せない時、「しのぶ会」はやがて動機を見失うのであると思う。動機がなくなれば、活動は止む。しかし、動機が見つかれば、活動は継続していく可能性がある。

そんなことを思っていた時、この文章を読んだ。遠藤周作によって、吉満が見出されれば、そこから岩下らが再び、その姿を現すことは大いに期待できるのではないだろうか。「忘れられた思想家」ではなくして、現代に語りかける思想家に変身できるのではないだろうか。

こういう初歩的な洞察さえ欠いていたということは、やはり我々の意識の問題性ではないかと思う。

「吉満は、ネオ・トミズムのJ・マリタンやキリスト教実存主義者のベルジャエフなどとの出会いを通して」(245頁)とあるが、吉満はベルジャエフと会ったことがあるのだろうか。もし、あったならば、フランス留学中、マリタンの関係で出会ったのかも知れない。しかし、著作の中でベルジャエフへの言及は、それほど多くはないと思う。

「遠藤は、生涯にわたる探究を通して、西欧キリスト教の蔭になっていた、根本的に「母なるもの」--つまり内在的超越的な聖霊の宗教としてのキリスト教に着目し、それを模索していったといえる」(261頁)と言われるが、後半の「内在的超越的な聖霊の宗教としてのキリスト教」というのは、西田の『場所的論理と宗教的世界観』にある「新しいキリスト教的世界は、内在的超越のキリストによって開かれるかも知れない」に対応した言葉であろうが、それが、遠藤の主張してきた「母なるもの」を意味するのだろうか。そして、「母なるもの」の中には、そのような大きな意味が込められていたのだろうか。これは今後の課題になるような気がする。

|

« 西田哲学 | トップページ | 新・旧の思想的母体 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 西田哲学 | トップページ | 新・旧の思想的母体 »