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2008年6月 1日 (日)

ルター批判の視点

岩下壮一神父には、ルター批判があるのだけれど、それが妥当しているのかどうか、私には疑問である。

特に、ルター派とカトリックで信仰義認合意声明が出ているくらいだから、その批判は何かの誤解があるのかも知れない。

要するに、義認と聖化の関係であり、ルターの義認には聖化が含まれていないという読み方を、岩下はしているようである。しかし、ルターの書き方、言い方には、そのように受け止められる可能性があっても、まさか、彼が、聖化なき義認を語っていたとは思えないのである。義認は聖化ではなく、確かに違う側面があるけれど、必然的に聖化をもたらす、その最初である、という理解はルター派の中にもあるのではないだろうか。まだ確かめていないけれど。

さて、岩下のルター批判は、こういうものである。

「ルッターの主張したように、全然罪悪の塊でどんな善をも行うことのできない者とするのは、人間をもって非道徳的存在にまで堕落せしめることであって、神の「善と見給える」創造の否定であり、マニ教的悪の原理を肯定して二元論に陥るに近いものである。このような存在には救いの成就に根底を提供すべき何物もあり得ない。従ってこのような存在は義とされても、その義は本質的内的義ではなくい、罪悪の塊にキリストの義を着物のように着せた擬制的正義であり、魂の真の聖化は成就すべくもない。すでに擬制的正義であるから、その結果である救いも当然擬制的救いに終わらざるをえない。それには罪を犯しながらでも信仰さえあれば足りるというのは論理一貫しているようだが、「神の本性に与る者」……というような新約聖書の偉大なる言葉は、このような贖罪観の中には活きてこない」(『岩下壮一全集』第4巻、232-3頁)

しかし、今、同じようなことを言うわけにはいかないだろうと思う。

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コメント

「義認の教理に関する共同宣言」では、「ルーテル側の理解によれば」、という書き出しで、こう言われている。

「……「信仰によってのみ義とされる」という教理においては、義認に必ず伴い、しかもそれなしには信仰が存在し得ないいのちの刷新は、義認から区別されるが、義認とは分離されない。むしろ、そうすることによって、そこからいのちの刷新が現れ出る基礎が示されている。なぜなら、義認において人間に与えられる神の愛から、いのちの刷新が成長するからである」(『義認の教理に関する共同宣言』教文館、38頁)

刷新を聖化と言い変えることも可能なのではないだろうか。


投稿: | 2008年6月 1日 (日) 17時40分

「岩下について続ければ、ルターの信仰義認論を「擬制的正義」として退けた彼が、「人間性の超自然的完成に対して、人間固有の能力は全く無能である。この点はカルヴィン的『神のみ』、あるいはバルトの審判観念は全くカトリシズムと一致する」という言葉のように、むしろ一方恩寵論に強い共感を示している」(『近代日本のカトリシズム』半澤孝麿著、みすず書房、259頁)という指摘もある。

これは、どう考えたらいいのだろうか。

投稿: | 2008年6月 1日 (日) 20時10分

マタイ22章37節から40節じゃないか?

投稿: | 2010年7月11日 (日) 20時01分

マタイ22章37節から40節を引用します。

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の起掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

私の、岩下に関する引用は、プロテスタント信仰の中心に関しては、共感、同意している、という指摘でした。岩下は、カトリックの論客でしたから、プロテスタント信仰の中核的要素も批判していたかというと、いや、そうではなかったという発見の、ある意味の驚きでした。

投稿: | 2010年7月12日 (月) 07時01分

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