« 大学生のころ | トップページ | 山上の教え »

2008年6月 8日 (日)

ギリシャ哲学

ギリシャ哲学は、ソクラテスを除き、プラトンもアリストテレスも、まず外界を見ることから始める。その抽象の中で、神を探している。自然神学から啓示へと段階がある。しかし、このような段階は無用ではないか。
仏教では、外界を見る余裕がないところから始める。それが日本人には合っていると思う。そこに西田哲学がある。もし、日本で、仏教とキリスト教との対話を考えるなら、西田哲学を無視できないだろう。

|

« 大学生のころ | トップページ | 山上の教え »

コメント

西田哲学を論じることは、日本を論じることにつながる。それは同時に仏教、キリスト教との対話に参加することでもある。キリスト教会は、もっと西田哲学に注目すべきではないのだろうか。仏教や禅を土台にしているといっても、西田はキリスト教にも深い理解を持っていたのだから。こんなことを言う背景には、小野寺氏の著書の影響があるかも知れない。図書館で、『西田幾多郎とキリスト教の対話』(浅見洋著、朝文社)を借りた。ポケットに、2001年2月17日付けの某新聞の新刊紹介の文章があった。かつて、私の同僚が書いた文章だった。

投稿: | 2008年6月 8日 (日) 15時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大学生のころ | トップページ | 山上の教え »