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2008年6月 3日 (火)

内在的超越と超越的内在

内在的超越は信徒の宣教の仕方であり、超越的内在が聖職者の宣教論かもしれない。信徒伝道は、内在的超越の仕方ですれば、うまくいくかもしれない。日本のような文化のある国では、超越的内在の伝道論は難しいのではないだろうか。少し、内在的超越の方向に転換してみてもいいのではないだろうか。

内在的超越とは滝沢克己の、第一義のインマヌエルを第一にして、第二義のインマヌエルを次ぎにおく見方であるかも知れない。超越的内在はその逆。超越的内在は排他主義の道、内在的超越は包括主義の道と言ってもよい。

内在的超越とは、ある意味では自然神学的試みなのかもしれない。自然神学の限界を語るのは容易だが、日本的、東洋的自然神学があってもいいかもしれない。それは広く、諸宗教対話の場でもあろう。

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コメント

排他主義と包括主義との関係は絶対矛盾的自己同一でなければならないと思う。そうでないと、包括主義は排他主義の一つの展開となり、新しい改宗主義になるだろう。そういう疑念は、当然、持たれるのである。だから、包括主義は、排他主義とは別の「原理」として考えられなければならない。その可能性は、排他主義が、そのうちに相対性を含んでいるという洞察である。その相対性を相対化するためには、包括主義の道での新要素が必要ではないかと思う。

だから、内在的超越と超越的内在との関係は、絶対矛盾的自己同一でなければならない。

投稿: | 2008年6月 5日 (木) 20時07分

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