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2008年6月22日 (日)

「中世をつくる」

吉満義彦氏が、遠藤周作氏に、「新しい中世をつくるのだ」と励ましたという、その本の個所が分からなかったが、それは、新潮文庫『人生の同伴者』であることが分かった。

「「先生、われわれはいったい、そういう中世をもっていないのに、どうしたらいいんですか」という質問をしましたら、「戻るんじゃない、つくるんだよ」とおっしゃった。これはしかし、ものすごくたいへんなことだとおもいました。」(45頁)

その前には、こんな文章がある。

「たとえば近代主義を批判して、ジャック・マリタンは、中世に戻ろうと、要するに精神における神と信仰の連帯によって結ばれていた精神共同体というものを、われわれの近代は失ってしまった。近代は精神共同体を失ったところからはじまったのだから、中世に戻ろうと、「新しい中世」ということを書いている。そして吉満義彦とか岩下壮一といった方たちは、同じようなことばで「カトリック研究」とか、そういうところで発表されてるわけです」(44-5頁)

「新しい中世」というのは、マリタンなどのサークルで語られていた言葉でもあるようだ。私は、ベルジャーエフの著作の中から拾ってきたが。

しかし、ここで、吉満が、遠藤に「戻るんじゃない、つくるんだよ」と言ったことは、非常に重要と思う。そして、きっと、吉満は遠藤の探究を高く評価されたのではないかと、思う。

遠藤の中には、意識が日本に向いていたところから、西洋中心の師への批判はあったかも知れないけれど、師は、それを認めて、なお、遠藤の活動を評価することができたと思う。それが、この「戻るんじゃない、つくるんだよ」という言葉に込められているような気がしてならない。

思えば、知識階級へのカトリシズムの市民権獲得を目指した、吉満の師、岩下の念願もまた、遠藤によって大いに実現していったのではないだろうか。

遠藤の業績を、吉満のつなげることは、新しい遠藤論をもたらすことになると思う。それは、佐藤泰正氏のように、遠藤を堀辰雄、芥川龍之介、夏目漱石などと結びつけるのとは、少し違った意味あいを持つように思う。もちろん、そういう評論は、残念ながら、今に至っても現れていない。

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コメント

中世に関連して、吉満は、それを伝統であると同時に正統としての性格をみていたのではないだろうか。しかし、遠藤は伝統としてのみ見た、ということではないだろうか。だから、「中世をつくる」という言葉が、吉満には可能であったが、遠藤は、それを西洋中世との比較の中で見て、「たいへんなこと」と思ったのではないだろうか。

歴史的中世は、伝統である。しかし、「新しき中世」は正統である。私の中では、そういう捉え方がある。

伝統と正統に関しては、河上徹太郎が『日本のアウトサイダー』の中で、「正統は伝統と無縁ではないが、正確には別物である。伝統とは過去にあって自分の外に繋がるものであるが、正統は直接自分の中にあるものである」と言っている。

『日本の正統』(新保祐司、富岡幸一郎著、朝文社)も、この書を取り上げて論じている。

投稿: | 2008年7月11日 (金) 10時43分

正統とは、現代的環境の中では、無限の対話能力とも思える。トマスの『神学大全』は、当時の異論と丁寧に対話し、自分の立場を表明している。それは問答無用的対応ではない。しかし、トマスの立場が正統になり、正統主義が生まれ、対話能力が減退したのではないだろうか。宗教改革の時、ルターに応じたドミニコ会のトマスの信仰を継ぐ人たちに、対話能力の低下はなかったろうか。

神は万物の創造主であれば、万物と対話できるはずである。そういう意味では、第二バチカン以降のカトリックの姿勢は、対話重視の姿勢は評価できると思う。

投稿: | 2008年7月11日 (金) 14時45分

最近、英知大学が聖トマス大学と改名した。トマスは13世紀の神学者トマス・アクィナスのことである。この名前が現在も有効であるということは、それが「正統」の要素を持つものであり、単なる「伝統」にとどまらないという意味なのだろうと思う。要するに、「正統」には現代的解釈、翻訳が可能なのであり、その意志の表明、課題が、そこに隠されているのかも知れない。

投稿: | 2008年7月13日 (日) 14時32分

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