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2008年6月 5日 (木)

西田哲学

西田哲学がキリスト教に触れているという指摘がある。その論理を学ぶことは信仰の理解の上でも有益かも知れない。

例えば、西田哲学に絶対矛盾的自己同一という言葉がある。そこで思い出されるのは、451年のカルケドン会議である。そこでは、キリストの神人二性一人格(ペルソナ)という正統派教理が確立されたという。

二性とは神性と人性、これらは絶対矛盾ではないのか。神は人ではないし、人は神ではない。この間の混同は許されない。しかし、キリストの中に、これら絶対矛盾が、一人格の中に「統合」されている。その一人格が「自己同一」であろうか。絶対矛盾的自己同一はイエス・キリストの神秘を表現しているようにも思えるのである。

西田の土台は仏教であり、禅であった。キリスト教を最初から見ていたわけではない。しかし、その言葉には、それでキリスト教信仰の真髄を表現できるものが多く見出されるように思われるのである。

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コメント

西田哲学というのは、その本質は宗教哲学なのだろう。禅・仏教を土台としていても、見ているものはキリスト教の信仰とだぶるものを感じる。小野寺氏が西田哲学に着目し、それとキリスト教信仰とをつなげようとしているのは貴重な提言であろうと思う。キリスト教の体験的真理を西田哲学の用語を用いて説明することも、ある程度はできると思う。プロテスタントの神学者たちも、そのことは知っていると思うが、まず批判があって、連続性の評価は少ないかも知れない。
中世哲学は、ギリシャのプラトンやアリストテレスの学びがなければ生まれなかった。ギリシャ哲学は、そもそもキリスト教とは関係ないのだが、「地」の要請を受けて、対話が始まったのだろう。であれば、現在の日本のキリスト者にとって、「地」の要請を受けて、対話に入るべき相手は仏教だとしたら、その素材に西田哲学があるということは、容易に理解できることであろう。
キリスト教界が、西田哲学を本格的に受容していけば、その過程の中で、「新しき中世」の創造、形成がなされるかも知れない。

投稿: | 2008年6月 6日 (金) 16時26分

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