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2008年6月12日 (木)

西田哲学

小野寺功氏は、大学で、教師から西田哲学は哲学ではないと言われたという。
なぜかは書かれていないが、あるいはあり得るかも知れない、と思った。

哲学は理性を最後の審判者として、普遍性を求めるものである。しかし、西田哲学の最終審判者は、あえて言えば、理性ではなくして、自覚(宗教的体験)である。自覚の説明が西田の求めたものであり、そこに西田哲学がある。これは、哲学と言えるのだろうか。

形而上学とか自然哲学とか、神の探求の成果は哲学である。しかし、自覚、あるいは宗教経験というものは、万人が承認するものではないのではなかろうか。その時、それは、普遍性、一般性を要求する学となりうるのだろうか。

しかし、まさに、そこにこそ西田哲学の魅力があるとも言える。なぜなら、生にとって一番大切な部分に単刀直入に切り込んでいくからである。

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コメント

小野寺氏は、こう書かれている。

「大学院時代に--私は上智大学ですけれども--西田哲学で卒論を書かせてほしいと哲学科長にお願いしに行きましたら、適当な指導者がいないということもありましたけれども、あれは哲学ではないとしかられたことを思い出します」
(『絶対無と神』南山宗教文化研究所編、春秋社、85頁)

投稿: | 2008年6月12日 (木) 17時25分

哲学専攻の学生に対しては、私は、まず、『善の研究』を読むことを勧めたい。手ごろな本では、講談社学術文庫『善の研究』(全註釈・小坂国継)がある。そして、もう一つは、中央公論社の世界の名著20『トマス・アクィナス』(責任編集・山田晶)である。二つの本とも註釈が主体になっているが、古典の註釈の意義を教えてくれたのは、後者の本であった。山田氏はことし2月29日、85歳で逝去されたが、その追悼が『創文』(6月号、NO.509)に出ている。
特に、プロテスタントから哲学をやろうとすると、どうしても、ルターに関心が向いて、彼の目でトマスを考えてしまう。しかし、そこに偏向はないのか。そんな時、山田氏の本は、トマスの意義を明らかにしてくれる。そして、ルターからトマスへの問いを返してくれるのである。
また、西田哲学は、西洋哲学とは違う、この国で哲学を専攻することの「前提」のようなものを教えてくれる。新生・聖化とは何かの問いに、仏教・禅の前提はあっても、何かの有効な示唆を与えてくれると思う。新生・聖化とは言葉は簡単で、キリスト者たちは容易に使うかも知れないが、その内容を説明する時、どんな言葉が、そこにあるのだろうか。西田は、それに対してまたとない対話の相手になってくれるのである。

投稿: | 2008年7月 2日 (水) 09時10分

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