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2008年6月15日 (日)

トマス解釈

トマス・アクィナスについて、大村晴雄氏は『近世哲学』(以文社)の中で、こう書いておられる。

「トマスにしたがえば、神の認識は、自然的理性のはたらきではじまるのであるが、その完成は、全く神に帰せられていたのである。ここでトマスは「啓示」という考えに立っている。この考えを、それだけとして切り離してみれば、神の認識は、確かに、神からわれわれに、注がれたものでなければならないのである。しかし、注目しなければならないのは、かれが、終りまで、自然的理性を否定していないということである。神の認識は、啓示によって、ますます高められひろげられはするけれども、終りまで、自然的理性による自然的認識なのである。われわれは、ここにもまた、現実的なもの、人間的なものの入念な神学化を見いだすことができる。われわれは、自然的理性のみをたよって、神についての最高の認識に入るのである。……これらの考察から、われわれは、トマスの体系を支えていたものが、自然的理性であったことを、結論することができる」(21-22頁)

「しかし」以下には、少し、異論を感じる。これだと、トマスはペラギウス主義者のように思われるのではないだろうか。自力救済主義者のようにである。

トマスは、一時、半ペラギウス主義の主張を持っていたが、アウグスチヌス研究の結果、その主張を捨てたといわれる。それは前半の理解の中に示されていると思う。

「しかし」以後の解釈は、トマスをペラギウス主義者、自力救済主義者に見なそうとしているように思えるのである。

山田晶氏の本を読んでも、確かに、そのような解釈があるらしいが、私は、そうは思わない。

要するに、罪によって、人間は人間でなくなるのではなく、罪の前後といえども、理性的動物という人間の本質、定義は変わらないということを考えれば、救いという一線を超えても、それは言えるのではないだろうか。しかし、それは、自然的な可能性の中に恩寵があるという意味ではない。

このへんの理解が、一番の要のように思われるのである。

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コメント

実は、トマスの立場はペラギウス主義と考える人たちがいるという。それは、「自然と恩恵、道徳と宗教との関係を連続的に把えること」によるもので、「ペラギウス主義であるといって、トマスの立場は非難される」と言われる(世界の名著20『トマス・アクィナス』中央公論社、45頁)

この事実に対して、同書の責任編集者・山田晶氏は、こう意見を述べている。

「私は、いわゆるトミストたちのうちに、このようにトマスの「完成」を考えている人があり、そのような人々によって理解されたかぎりにおける「トミズム」に対しては、上記の批判は当っていることを認めざるをえない。しかしながら、「完成する」ということの、トマス自身における意味は、そのようなものではないと思う」(前同、45-6頁)

だから、大村氏の見解もまた、ある部分では妥当性を持っているのかも知れない。

しかし、少し信じられない思いではある。

投稿: | 2008年6月17日 (火) 17時02分

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