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2008年7月30日 (水)

天才と秀才

教育に 天才求め ゆとり道
 歩んだところ 学力低下

こりゃいかん 秀才の道 復活し
 ゆとりふっとび 天才いずこ

ゲーム機に 子らは熱中 学び捨て
 天才の芽が ここにあるかも

天才は 人為にあらず 教育で
 可能なるもの 秀才どまり

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2008年7月27日 (日)

廃品利用

廃品も 視線を変えて 見るならば
 有用な品 生かす道あり

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恥を知る 昔の徳は 今いずこ
 きれいに渡れ しばしのこの世

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DNA

DNA 環境破る その力
 神の予定の 証しのような

新生は DNAの 入れ替えか
 ここから始む 環境はあと

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隣の目

隣の目 気にし過ぎると 無視すると
 共に困った 止揚を求む

止揚とは、二つの要素を共に含む。

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内村の洞察

近代に  生き近代を  超えてゆく
 その歴史観  いかに今読む

近代とは教派の是認を前提にしている。内村には、それへの批判が若い時から一貫してあった。しかし、歴史的西洋中世へ戻る選択ではなく、彼は来るべき世と時代を求めたのである。

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2008年7月21日 (月)

新と旧

新教は 旧教ありて 新教と
 新の独立 新・新を生む

プロテスタントはカトリックとの関係の中でプロテスタントである。しかし、その関係を顧慮せずに、「独立」した時、新・新としての無教会が生まれたのではないだろうか。その意味で、無教会には問題提起としての意義があると思う。

「新の独立」とは、教派の是認を意味する。

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2008年7月20日 (日)

高神覚昇

高神の 名を忘れまじ 名著ゆえ
 般若心経 講義は今も

高神覚昇著『般若心経講義』(角川文庫)を読んだことがありました。名著と思いました。 
 

 

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アイディア

アイディアが 真剣なれば 形とる
 祈り結実 水路の如し

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塚本問題

塚本を 評価しつつも 分離する
 内村真意 読む人は誰

教会と 対話に入れ 教派超え
 対立のほか 別の面あり

課題あり 今も気づかぬ 人多し
 風景と化す 宗教続く

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異体同心

浄土系 法華系との 分裂を
 統合するは 西田哲学

西田の根底は、浄土系でもなく、法華系でもなく、禅であった。その悟りの言葉が絶対矛盾的自己同一であった。そこには、浄土系と法華系との統合の契機があるように思う。

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信者数

信者数 1パーセント 繰り返す
 シンパは多く 異体同心

文化の差 胸張る信者 嫌がられ
 無の前提で 見れば輝く

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戦後日本

憲法で 絶対非戦 内村は
 仰天するぞ 戦後の日本

日米の 同盟のもと 非戦あり
 絶対非戦 名前倒れか

されどなお 平和求める 民の声
 堂々主張 よき時代かな

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2008年7月18日 (金)

発見

無意識に  発見志向  今日もまた
  積み上げてゆく  眺望求め

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2008年7月16日 (水)

教会観

「かつてシュライエルマッヘルが「カトリシズムは個人のキリストとの関係を、彼の教会との関係に依存せしむるに反し、プロテスタンチズムは個人の教会との関係を、彼のキリストとの関係に由らしむ」と言ったのは正しい」(講談社学術文庫『カトリックの信仰』岩下壮一著、638頁)

同感である。

カトリックでは、自らの可見的教会を使徒継承として、受肉の継続して重視するけれど、そのような信仰はプロテスタントにはないだろう。そのような「教会の信仰」は不可見的教会に移されているのだろう。そして、可見的教会は不可見的教会の部分として見ているように思う。

カトリックが、可見的教会への信仰を要求する時、なかなか困難が生まれるかも知れない。米国などで、聖職者の「罪」が報道されている。その時、それでも教会を信ぜよというには、アウグスチヌスのドナティスト論争において、「それでも教会を」といった、現実の教会を超えた何かへの信仰が要求されるかも知れない。

現実の可見的教会を、カトリックの要求する教会観にまで同一視するには、聖職者たちには過大の要求なのではないだろうか。

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新生と聖化

「救いは人間が我儘勝手に「自分は救われた」と思い込む Mind Cure ではなく、神と人との不断の人格的交渉によって発展してゆく」(講談社学術文庫『カトリックの信仰』岩下壮一著、629頁)

岩下氏のこの本は、カトリックのプロテスタント批判が随所に現れている。だから、きちんと取り上げれば、教会間の相互理解の発展に大いに寄与するはずであるが、そういう取り組みを知らない。批判の対象は主に無教会であるかも知れない。しかし、当然、異論はあろうと思う。

その異論の一つに、上記の個所があるかも知れない。

上記の岩下氏の批判の前半はプロテスタントへの批判なのだろう。それは聖化の視点からの新生の批判なのかも知れない。「擬似」新生への批判というべきかも知れない。真正の新生への批判ではないのかも知れない。私は、プロテスタントに、また無教会にも、真正の新生がないとは思わないから、岩下氏のように大胆に批判することはできない。

新生は聖化とは別ではあるが、聖化の最初という意味もあると思う。新生は主観的なものであると、岩下氏は見ているかも知れないが、私は、そうは思わない。西田の純粋経験のようなもので、単に主観的とだけいうことはできないと思う。新生と聖化の関係は、あるいは聖化と栄化との関係と類似的かも知れない。あるいは、聖化とは新生の反復ともいえるかも知れない。その意味では、聖化重視の人は新生もまた重視すべきではないかと思う。この二つは相違しているが、対立的に見てはいけないのだと思う。

プロテスタントは、どちらかというと、新生を重視する。カトリックは、どちらかというと、聖化を重視する。しかし、両者は、その真相においては対立していないのである。

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無限包容雑居性

芥川龍之介の小説に、日本の風土がキリスト教(キリシタン)宣教の妨げになっているという指摘があった。宣教師の言葉のなかに、それが語られていた。沼という言葉の中に、この地に根付く「無限包容雑居性」の意識が指摘されていた。その後、内村鑑三も、日本的キリスト教のあり方を探っていたが、戦後、このテーマを課題にしたのは遠藤周作であった。遠藤と芥川にはテーマの共有があったと思う。遠藤は、「母なるもの」において、内村への批判があったかも知れないが、テーマに関しては、内村とも共有していたのである。

そして、無限包容雑居性は、芥川にとっても、遠藤にとっても、キリスト教の「敵」として見なされていたが、いや、この中でキリスト教の受容がありうるのではないかと思うようになった。

内村にも、それがあり、それに対応して、カトリックにも、それがあり得ると思う。カトリックは、そもそも、それを認めていく建前でなければならないのだろう。その意味では、第二バチカンは、そのカトリック精神の再確認の時であったかも知れない。

日本キリスト教団も、プロテスタントの中での、教派「雑居」を認め、それを是認しているのだと思う。

我々は、無限包容雑居性を生かすようにしなければならないのではないだろうか。

昔、死海はだめだ。水が流れ入るばかりで、流れ出していかない。そういう場所は生物が生きていけない。だから、受けた恵みは、他に与えていって、死海にはならないようにしよう、という勧めを聞いたことがあった。そういう意味では、日本は死海のようかも知れない。いろんなものが入ってくる。流れていかない。流れていったとしたら、何か別のものになっているようでもある。

しかし、これが日本文化の質であれば、その枠の中で、新たな展望を探っていってもいいのではないだろうか。

無限包容雑居性を否定的にではなくて、積極的に評価していもいいのではないだろうか。

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2008年7月15日 (火)

竹島問題

感情の 対立を呼ぶ その前に
 因の明確 対話できぬか

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2008年7月13日 (日)

遠藤文学

棄教せよ 声ありて聞く 主の声を
 批判は起きる あるいは今も

『沈黙』の問題は、今も続いているのかも知れない。

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自己認識と神認識

我は何 その問い抱き 尋ねゆく
神を尋ねる 旅路と知れり

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断片と体系

断片の 主張はよいが 体系化
排除の機能 それに伴う

断片に 共感同意  あり得べし
対話は進む その限りでは

断片の 体系化への プロセスは
これも不可避か  還相の道

純粋の 経験はこれ 断片か
説明の意図 西田哲学

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2008年7月11日 (金)

解釈

俳句のどこに魅力があるのか分からなかった。今でも、よく分からないが、少し、分かりかけたかな、とも思う。それは解釈にかかっているのではないだろうか。

たとえば、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という芭蕉の有名な句がある。この句を、どう味わうのか。

恐らく、誰でも静寂に思いをはせるのではないだろうか。その一瞬の静寂の想像、それだけでいいのではないだろうか。都会生活では期待できない、そんな静寂の一瞬、それを思い浮かべるだけでも、精神に何かよい薬になるのではないだろうか。

俳句に理屈を期待しても無理だろう。そして、理屈がなければ意味もない、というのであれば、俳句を味わうのには無理があろう。句がかもし出す不思議な意識、それだけで十分なのではないだろうか

しかし、これは、一つの解釈であろう。

しかし、解釈であれば、別の解釈もありそうだ。

実存的な解釈もある。

「古池」は実存の深淵あるいは無意識、「蛙飛びこむ」は決断の時、「水の音」は、その影響、と言った具合。

蛙(かわず)は「かえる」とも読むが、それを「帰る」と連想し、「本来的自己へ帰る」というの意味にとっても面白い。

禅の言葉に大死一番がある。「蛙飛びこむ」は、この大死一番の時、そして、蛙は「本来的自己に帰る」という意味の「主体」。その主体は、その飛び込んだ時に、「身心脱落」から「脱落身心」への転換を実現するのである。

そして、その主体の転換、また転換された主体は、世界に知られるようになる。それが「水の音」かも知れない。

そんな解釈もありそうである。

解釈の面白さを再考したい。

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2008年7月 9日 (水)

純粋経験

純粋の 経験求め 起点とす
 新生・聖化 それは何かと

西田幾多郎の純粋経験は、悟りの体験のようであり、キリスト教では聖霊体験(新生・聖化)を指すようでもある。そこから思索していこうという限定には賛同したい。そこには、どこかヘーゲルとの類似も指摘されているが、聖化の道の論理展開とみれば、キリスト者にとっても教えられるところは多いと思う。

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聖定論

「聖定論或いは予定論が、決定論、宿命論ではなく、第二原因としての人間の自由行為が、歴史過程の上に持つ意義を正当に評価するものとして、一般恩恵論が果たしている役割の重要性を認めるならば、神学的倫理学は一般恩恵論的な性格を無視しては語られ得ないように思われます」(『カルヴィニズム概論』岡田稔著、小峯書店、63頁)

ここでは、聖定論或いは予定論は決定論、宿命論ではないと指摘されている。この指摘は重要である。一般的なカルヴィニズム批判は、この二つを結びつけることから生まれるからである。しかし、この二つを結合させて、カルヴィニズムの信仰を維持するのは、やはり難しいだろう。この二つを分けるのは、「第二原因」や「一般恩恵」の考え方であると言われる。救いとか啓示というものは、特別恩恵に関係するから、「第二原因」とか、「一般恩恵」とは、信仰の本質に関する議論ではないと思われがちだけれど、日本という「異教」社会で生きるキリスト者にとっては、むしろ、「第二原因」「一般恩恵」に関する理解は重要であると思う。

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カルヴィニズム

「…在家宗教としてのカルヴィニズム…」(『カルヴィニズム概論』岡田稔著、小峯書店、60頁)

在家宗教というのは信徒集団という意味なのだろうけれど、カルヴィニズムには、そういう自意識があるのだろうか。ルターはカトリック教会の司祭であったが、カルビンは一人の信徒であった。カルビンと共に改革派の源流になったツヴィングリは司祭であった。

エキュメニズムというのは、教会協力の意味で使われているが、教会の壁は意識の中では厳然と残っているのである。しかし、目標は「一つの見える教会」である。プロテスタントとカトリックの間に、そのような目標は、どのようにして達成できるのだろうか。

第二バチカンで、信徒使徒職という言葉が出てきたが、それはこの教会の中でのこと。しかし、実は、プロテスタント運動そのものが、カルビンを考えれば、(カトリック教会内における)巨大な信徒運動ではなかったのだろうか。

そういう意識が芽生えなければ、キリスト教の明日は生まれないかも知れないと思う。

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小説『沈黙』の意味

転ぶ人 絶対他力 気づかせる
 されど告白 必要なきか

告白を 自力と見れば 異議認む
 されど即信 自力にあらず

「他力」様 母なるものを 表現す
 そこに甘えが ないのだろうか

告白を 重んじ生きる 人なれば
 殉教もまた 選択のうち

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2008年7月 8日 (火)

大志と野心

大志とは 野心の聖化 原文に
 聖はあれども その意を知らず

野心また なければ困る マーチ聞き
 我を励ます 野心生まれず

我が内に 野心なくとも その求め
 外には多し 課題深刻

大志とは、「少年よ、大志を抱け」の大志ですが、そのあとに、聖書の信仰の言葉があったようです。

野心とは、内なる罪を原因として現れるものかも知れません。であれば、罪を許されるということは、そういう野心が消えることかも知れません。しかし、やはり、人として生きる以上は「野心的」に生きたいものです。
外の世界には、課題は多く、深刻です。その関係の中に身を置けば、人は野心的にならざるを得ないと思います。しかし、それは、分裂をもたらす野心ではなくて、どこか湿り気のある人間関係の中で、乾いた人間関係の修復と共に、前進していくものと思います。

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西田哲学

聖霊の  体験を見る  まなざしに
仏教超えて キリスト者らも

純粋の 経験語る 原点と
へーゲルの観  一脈通ず

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自然と恩寵

自然性  恩寵のもと  主張せよ
 せずば罪なり  その観を持て

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老病

老病に 囲まれる我 祈るのみ 
 生に意味あり 祈りの中に

老病の 克服めざす 人多し
祈りを捨てて 解決はなし

祈りにて 大船に乗る 死を渡る
 悲しみはなく 神と共なり

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ビリー・グラハム氏

グラハム氏 決断の時  訴えて
バプテスト派の  信仰を見る

大衆伝道の中にバプテスト派の信仰の強調を見ることができそうだ。

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中世

信仰と 理性の出会い  無視できず
  中世開く  必然の観

聖霊の  体験語れ  それ何か
哲学の的 東西にあり

東西とは、東は西田幾多郎、西はへーゲル。聖霊体験とは何か、それが哲学の関心事になってもいいのではないか。

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無事

何事も  なく過ぎるのが  よいけれど
 何か起きるも  必要かとも

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2008年7月 6日 (日)

無常感

我襲う 諸行無常の 響き聞き
 常を求めて 菩薩の道へ

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2008年7月 1日 (火)

近代日本の回想

近代の 日本回想 それなしに
 いかに未来を 切り開くべし

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エキュメニズム

公会も 無教会でも 課題指示
 未来につなぐ 実現の時

カトリック教会がその主張を通すには全教会のー致が必要だろう。その時は宗教改革も西方教会内のーつのエピソードになるだろう。日本プロテスタント史の最初にあった日本キリスト公会の究極の理想も無教会の最終的に目指すところも、その日に向けられているとも言えよう。いま、対話が進んで、その目指すところの実現の必要は共有されているのではないだろうか。

カトリック教会では、ことし6月28日から来年6月29日までを「パウロ年」とした。この教会には、「聖ペトロ・聖パウロの祭日」というものがある。この両使徒の祭日を「ローマ教会の誕生日」とも言っているらしい。ペトロは「見える教会」、パウロは「見えない教会」に関わりを持っているかも知れない。イエスの言葉がペテロの根拠であり、回心体験がパウロの根拠であるからだ。そして、この二人を分離させてはいけないのだろう。宗教改革後は分離させて考える傾向が強くなったが、そういう時代も、そろそろという思いがしている。しかし、そのために、プロテスタントの自由が犠牲になってはいけないとも思う。

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