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2008年7月 9日 (水)

純粋経験

純粋の 経験求め 起点とす
 新生・聖化 それは何かと

西田幾多郎の純粋経験は、悟りの体験のようであり、キリスト教では聖霊体験(新生・聖化)を指すようでもある。そこから思索していこうという限定には賛同したい。そこには、どこかヘーゲルとの類似も指摘されているが、聖化の道の論理展開とみれば、キリスト者にとっても教えられるところは多いと思う。

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コメント

例えば、西田幾多郎が、綱島梁川の「見神の実験」を読んだ感想にも、それはうかがえる。「見神の実験」は『回光録』に記されているが、それは禅の見性の体験に似ていると見られたようで、西田は、明治39年3月の手紙で、こう述べている。

「梁川氏の病間録は小生等には其境涯を伺ふことはとてもできぬが、思想に於ては小生其一字一句を讃成致し全く余の言はんと欲する所を云ひたる心地致し候」(全集第18巻75頁)

「見神」といっても、神を肉眼で見ることではなく、一種の聖霊体験であろう。「謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜ひそかに心の奥に溢れ出でて、やがて徐(おもむ)ろに全意識を領したり」と書いている。聖霊の満たしとか、以前の言葉なら、聖霊の盈満(えいまん)という聖化の体験を指すのであろうか。

投稿: | 2008年7月 9日 (水) 19時59分

純粋経験は『善の研究』を生み出した。しかし、聖霊の満たしは、個人的体験に留まるのではないだろうか。その反省から、両者の関係に思いをはせるのも意味があるかも知れない。

投稿: | 2008年7月10日 (木) 06時12分

純粋経験は新生体験ではないが、それを連想させるものがある。

投稿: | 2008年7月13日 (日) 09時19分

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