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2008年7月16日 (水)

新生と聖化

「救いは人間が我儘勝手に「自分は救われた」と思い込む Mind Cure ではなく、神と人との不断の人格的交渉によって発展してゆく」(講談社学術文庫『カトリックの信仰』岩下壮一著、629頁)

岩下氏のこの本は、カトリックのプロテスタント批判が随所に現れている。だから、きちんと取り上げれば、教会間の相互理解の発展に大いに寄与するはずであるが、そういう取り組みを知らない。批判の対象は主に無教会であるかも知れない。しかし、当然、異論はあろうと思う。

その異論の一つに、上記の個所があるかも知れない。

上記の岩下氏の批判の前半はプロテスタントへの批判なのだろう。それは聖化の視点からの新生の批判なのかも知れない。「擬似」新生への批判というべきかも知れない。真正の新生への批判ではないのかも知れない。私は、プロテスタントに、また無教会にも、真正の新生がないとは思わないから、岩下氏のように大胆に批判することはできない。

新生は聖化とは別ではあるが、聖化の最初という意味もあると思う。新生は主観的なものであると、岩下氏は見ているかも知れないが、私は、そうは思わない。西田の純粋経験のようなもので、単に主観的とだけいうことはできないと思う。新生と聖化の関係は、あるいは聖化と栄化との関係と類似的かも知れない。あるいは、聖化とは新生の反復ともいえるかも知れない。その意味では、聖化重視の人は新生もまた重視すべきではないかと思う。この二つは相違しているが、対立的に見てはいけないのだと思う。

プロテスタントは、どちらかというと、新生を重視する。カトリックは、どちらかというと、聖化を重視する。しかし、両者は、その真相においては対立していないのである。

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