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2008年7月11日 (金)

解釈

俳句のどこに魅力があるのか分からなかった。今でも、よく分からないが、少し、分かりかけたかな、とも思う。それは解釈にかかっているのではないだろうか。

たとえば、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という芭蕉の有名な句がある。この句を、どう味わうのか。

恐らく、誰でも静寂に思いをはせるのではないだろうか。その一瞬の静寂の想像、それだけでいいのではないだろうか。都会生活では期待できない、そんな静寂の一瞬、それを思い浮かべるだけでも、精神に何かよい薬になるのではないだろうか。

俳句に理屈を期待しても無理だろう。そして、理屈がなければ意味もない、というのであれば、俳句を味わうのには無理があろう。句がかもし出す不思議な意識、それだけで十分なのではないだろうか

しかし、これは、一つの解釈であろう。

しかし、解釈であれば、別の解釈もありそうだ。

実存的な解釈もある。

「古池」は実存の深淵あるいは無意識、「蛙飛びこむ」は決断の時、「水の音」は、その影響、と言った具合。

蛙(かわず)は「かえる」とも読むが、それを「帰る」と連想し、「本来的自己へ帰る」というの意味にとっても面白い。

禅の言葉に大死一番がある。「蛙飛びこむ」は、この大死一番の時、そして、蛙は「本来的自己に帰る」という意味の「主体」。その主体は、その飛び込んだ時に、「身心脱落」から「脱落身心」への転換を実現するのである。

そして、その主体の転換、また転換された主体は、世界に知られるようになる。それが「水の音」かも知れない。

そんな解釈もありそうである。

解釈の面白さを再考したい。

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