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2008年7月16日 (水)

無限包容雑居性

芥川龍之介の小説に、日本の風土がキリスト教(キリシタン)宣教の妨げになっているという指摘があった。宣教師の言葉のなかに、それが語られていた。沼という言葉の中に、この地に根付く「無限包容雑居性」の意識が指摘されていた。その後、内村鑑三も、日本的キリスト教のあり方を探っていたが、戦後、このテーマを課題にしたのは遠藤周作であった。遠藤と芥川にはテーマの共有があったと思う。遠藤は、「母なるもの」において、内村への批判があったかも知れないが、テーマに関しては、内村とも共有していたのである。

そして、無限包容雑居性は、芥川にとっても、遠藤にとっても、キリスト教の「敵」として見なされていたが、いや、この中でキリスト教の受容がありうるのではないかと思うようになった。

内村にも、それがあり、それに対応して、カトリックにも、それがあり得ると思う。カトリックは、そもそも、それを認めていく建前でなければならないのだろう。その意味では、第二バチカンは、そのカトリック精神の再確認の時であったかも知れない。

日本キリスト教団も、プロテスタントの中での、教派「雑居」を認め、それを是認しているのだと思う。

我々は、無限包容雑居性を生かすようにしなければならないのではないだろうか。

昔、死海はだめだ。水が流れ入るばかりで、流れ出していかない。そういう場所は生物が生きていけない。だから、受けた恵みは、他に与えていって、死海にはならないようにしよう、という勧めを聞いたことがあった。そういう意味では、日本は死海のようかも知れない。いろんなものが入ってくる。流れていかない。流れていったとしたら、何か別のものになっているようでもある。

しかし、これが日本文化の質であれば、その枠の中で、新たな展望を探っていってもいいのではないだろうか。

無限包容雑居性を否定的にではなくて、積極的に評価していもいいのではないだろうか。

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