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2008年9月28日 (日)

洗礼の問題

ルターの宗教改革の主題は「信仰義認」であった。それは、洗礼を問うという意味を持っていたと、私は思う。そんな社会的背景があったからである。

「けれども西欧の中世紀に、キリスト教が国教となって、不幸にも教権と俗権との癒着という好ましからぬ現象が生じたとき、新生児の教会での受洗がそのまま市民社会への出産届出と同じ効果を持つという状態、いわば、市民権を得るための受洗という状態が造り上げられることになりました。その結果は、「信じて洗礼を受ける」という主題は崩れ去り、「受洗者・イコール・キリスト者」という短絡された方程式が出来上がることになって、信仰内容の実質の如何にかかわらぬ虚名の信者大衆が生まれ出るのは当然の帰結でさえありました」
(『聖霊と私』小林有方編著、ヴェリタス出版社、15頁)

水の洗礼と聖霊の洗礼の問題、その関係、それらが宗教改革の深い問題意識であったのではないだろうか。信仰義認とは、水の洗礼の前提としての「信じて」の部分を指摘したものかも知れない。

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2008年9月26日 (金)

麻生首相誕生

麻生太郎氏が首相に就任しました。カトリック信者の首相です。日本のカトリック教会は、この事実をどう受け止めるのでしょうか。無視でしょうか。

麻生氏が国会で、「私は敬虔なカトリック」と言われた言葉を忘れることができません。その限りで、麻生政権に神の恩恵があると信じています。そして、関心をもって、日本の政治、そしてカトリック教会の動向を見ていきたいと思います。

本当は、政治と宗教といったテーマの議論が生まれてもいいと思います。その時、公明党、創価学会は、どういうスタンスをとるかも注目すべきかも知れません。

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2008年9月23日 (火)

行き詰ったら

数独問題に挑戦している時、時に行き詰ることがある。そんな時、少し、時間をおいて、再度、挑戦すると、解決へ向けて前進できることがある。なぜかは知らない。

また、ちょっとした見過ごしで、解決への道が進まないこともある。そんな時は、「なんだ、こんなことで」と思うものである。見つかった時は、少し、気分がいい。

しかし、マスの中の予約数字を、どうしても消去しきれない場合がある。そんな問題は難しい問題なのだろう。その時、どうするか。

まず、予約数字の数の少ないマスを取り上げて、実際に、数字を入れたら、どうなるか、推理してみるのも、いいと思う。それしか、仕方ないと思う。そして、その結果を考えるのである。

取り上げるマスは、対称性のあるものとかがいい。また、予約数字は二つが条件と思う。

全体的な解き方は、枚挙・消去法がいいと思う。これは確実である。そして、消去できない時に、いろいろと考えるのである。解決した時は、一種の爽快感を感じるが、解決しない時には、少し、気分が悪い。

ようやく、『ポケット数独』の上級篇を終えた。今度は、「数独2」をやるつもりである。初級篇は、カットしてもいいと思うが、初級篇を購入した。

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ヨシュアについて

イエスという名前は、古典ギリシア語「イエースース」に由来する日本語表記だけれど、アラム語では「イェーシューア」で、これはヘブライ語では「ヨシュア」なのだという。

このヨシュアで、モーセの後継者のことを思い出す。モーセは約束の地に入らなかった。入ったのは、後継者の
ヨシュアだった。

キリスト教がユダヤ教から始まったことは聖書の構成を見れば分かる。ユダヤ教の聖書は、キリスト教の聖書の旧約部分で、キリスト教は旧約・新約を聖書にしている。そして、ユダヤ教の中心人物はモーセであろう。そのモーセの後継者のヨシュアと、イエスを重ねてみて、ユダヤ教とキリスト教との関係を連想することがある。

あの、モーセの後継者で、約束の地に入ったヨシュアは、「キリスト教を始めた」、あのナザレのイエスと、どこかでつながるような気がする。

イエスの名前はヘブライ語では「ヨシュア」ということを思うたび、あの、モーセの後継者のことを連想してしまうのである。そして、ユダヤ教とキリスト教との関係を思うのである。

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2008年9月19日 (金)

自己深化・自己実現

自己否定 表現のあと 可能なり
 表現は行く とらわれず行け
 
表現は一つの活動であり、行為です。その行為がなければ、自己否定はないでしょう。「表現は行く」の「行」は「行為」の意味を込めていて、「とらわれず行け」の「行け」は「励まし」の意味。

表現活動は、自己否定の前提かも知れません。そして、自己否定がなければ、自己深化も、また自己実現もないと思います。

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2008年9月17日 (水)

「主の祈り」雑感

教会では、「主の祈り」を祈る。これは福音書に書かれている、イエスの教えた祈りである。

しかし、この時は、十字架も復活も聖霊降臨もなかった。従って、教会もなかった。教会は聖霊降臨から始まるのである。聖霊降臨日は教会の誕生日と言われるが、従って誕生日の前には存在しなかったと考えてもいいのではないか。

ということは、「主の祈り」が教えられたのは、教会が誕生する前のことである。教会が誕生している今、それは、イエスの教えの前にいた人々とは違う視点があるのではないだろうか。

「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
…」

「主の祈り」には、冒頭、こう書かれている。どう解釈するのだろうか。

「御国が来ますように」という祈りを、将来に待ち望む思いの中で祈るのが、一般的かも知れないが、これは聖霊降臨(ペンテコステ)との関係で理解されるべきと思う。御国を「知る」のは、今の我々にとっては、ペンテコステ体験の現在的・個人的実現においてではないだろうか。そして、それは御名を「呼ぶ」ことにおいて実現する。御名を呼び、ペンテコステを体験する、それは今、可能なことである。この基礎の上に、なお、再臨を待ち望む、それが「主の祈り」の、現在的姿勢ではないのだろうか。

教会はペンテコステを忘れる時、教会の本質を失うのだと思う。それは教会の誕生日なのだから、教会の本質が現れた時でもある。だから、教会はペンテコステを覚え、常に強調しなければならないと思う。

しかし、今、ペンテコステ教会というものは異言の主張で「拘束」されている。だから、ペンテコステの強調は「異言の主張」を意味すると思われるかも知れない。しかし、そうでなくてもいいと思う。フィニーは、ウェスレーは聖霊の働きを強調したが、異言について、同じように強調しただろうか。聖霊の働き、ペンテコステの強調が、異言の主張と誤解されるかも知れないということで、それをしないことは、その方が問題があると思う。

「主よ、ペンテコステを、今、世界に」

こんな祈りの中に、教会のリバイバルの原点があるように思う。

祈りは、自分が祈ることでもあるが、実は、教会全体が祈っている。その祈りに合わせるだけなのかも知れない。そして、祈りは、ペンテコステの一瞥を欠いてはいけないと思う。

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2008年9月14日 (日)

自民党総裁選

自民党総裁選に二人のキリスト者が立候補している。麻生太郎氏(カトリック)と石破茂氏(プロテスタント)である。

しかし、日本の教会は、余り関心がなさそうである。お二人も、信仰と政治について、どう考えているのか、余り語っていない。しかし、知りたいものである。結果によっては、教会の中に応援団が生まれるかも知れない。いや、日本の教会は政治には距離を置きたいかも知れない。そして、批判していたいかも知れない。

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唯物論

元は皆 唯物の説 原子論
 皆平等の 観念を生む

巷間の この説を見て 批判力
 反観念の 観念思う

観念と 唯物超える 霊世界
 観念超える 堺忘れず
 
古代ギリシャの原子論は唯物論とつながりがありそうだが、原子論には、反観念論的要素はないと思う。唯物論の反観念論的性格は、それもまた一つの観念論なのかも知れない。観念論は宗教的信仰と関係がありそうだが、その堺もまたあると思う。

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2008年9月 9日 (火)

確実なこと

デカルトは「我思う、故に我在り」という。西田幾多郎は「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(『善の研究』序)という。

デカルトの発見は、「人間は理性的動物」という定義の、「理性的」の発見であったのではないか。それは、神と人との最初の接触である「創造」を示唆しているかも知れないが、人間の課題は、創造ではなくて、「救い」であり、それは第二の接触であり、そこへと導くものが求められている。そう思う時、デカルトへの不満が起きる。そして、それはデカルト以降の近世哲学への不満にもつながる。デカルトにとっては、信仰は不必要なのだろうか、という問いが出てきそうだ。信仰なしに、人間の確実性に達することが出来ると思われるからである。

西田は、それに対して、救いの原点を指し示して、そこから思索を始めようとしているように思われる。そこで言われる「経験」とは、純粋経験であり、それは、キリスト教の側で考えれば新生体験でもあろう。新生を原点にして思索していくとすれば、それは聖化の道を行く以外にはない。西田は仏教・禅の中での思索の展開であっても、キリスト教にも翻訳できるものがあると思われるのである。

比較すれば、西田の方が実存的である。そして、「近代の超克」の哲学でもあろう。

西田哲学の研究者にキリスト者がいても、それは当然と思われる。

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2008年9月 7日 (日)

数独着手作業

数独を解く時、最初から枚挙・消去法では大変です。81の枠の中に、可能性のある数字を全部、入れていくのですから。一つの枠に6つの数字が入ることもあります。

しかし、最初は、別の仕方で、簡単に数字を確定することができます。表示数字の数を数えて、その多い数字の中で、確定数字を見つけることです。これは割合、簡単です。だいたい、3つくらい以上の表示数字について調べます。そうすると、何個かの数字が確定します。

そのあと、枚挙・消去法で、数字を消していきます。その時、縦・横列、それに小枠と、すべてを順番に調べていきます。その中で、数字が消されていき、やがて一つになった時、それが確定数字になります。

こういう作業は、時間がないとできませんが、人によっては、やみつきになるかも知れません。

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2008年9月 2日 (火)

宗教改革

改革の 今の解釈 我にあり
 過去の解釈 学ぶ人らも

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数独夢中

喫茶店 数独夢中 人を見て
 流行(はやり)のパズル 我もその中

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