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2008年9月28日 (日)

洗礼の問題

ルターの宗教改革の主題は「信仰義認」であった。それは、洗礼を問うという意味を持っていたと、私は思う。そんな社会的背景があったからである。

「けれども西欧の中世紀に、キリスト教が国教となって、不幸にも教権と俗権との癒着という好ましからぬ現象が生じたとき、新生児の教会での受洗がそのまま市民社会への出産届出と同じ効果を持つという状態、いわば、市民権を得るための受洗という状態が造り上げられることになりました。その結果は、「信じて洗礼を受ける」という主題は崩れ去り、「受洗者・イコール・キリスト者」という短絡された方程式が出来上がることになって、信仰内容の実質の如何にかかわらぬ虚名の信者大衆が生まれ出るのは当然の帰結でさえありました」
(『聖霊と私』小林有方編著、ヴェリタス出版社、15頁)

水の洗礼と聖霊の洗礼の問題、その関係、それらが宗教改革の深い問題意識であったのではないだろうか。信仰義認とは、水の洗礼の前提としての「信じて」の部分を指摘したものかも知れない。

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コメント

『聖霊と私』という本は、「カリスマ刷新」の運動が日本のカトリック教会に、どのようにして入っていったかの初期の記録である。

そこでは、異言(カトリックでは異語)、といやしの、聖霊の賜物が語られていて、当然のこととして語られている。しかし、最初から、受け入れていたのではなく、シュナイダー神父は、最初は抵抗があったと記している。あの、聖霊降臨後の、異言、いやしという賜物の記事は、当時は、そのとおりであったけれど、今は、その必要がなくなったので、通常は現れない、そんな理解が一般的で、そう考えていたという。プロテスタントの改革派系の信仰も、そうだと思う。しかし、異言、いやしという聖霊の賜物を、今もある事実として受け入れていった、そんな過程が書かれている。

使徒言行録の聖霊の顕著な働きは今は起きない、というのは、教会の一般的な理解かも知れないが、それをくつがえす信仰が生まれ、発展していったというのは、要するに、プロテスタントのペンテコステ教会の由来そのものである。しかし、同じことがカトリック教会にも起きているという事実を、この本は雄弁にあかししている。著者は12人で、司教と司祭たちばかりである。

現代の聖霊刷新運動が、ペンテコステ教会だけではなく、カトリック教会にも起きていることを示している。聖霊派という言葉も出来ているが、それは通常はプロテスタントの一部を指しているが、事実は、プロテスタント、カトリックを含んでいる。

しかし、この本が出たのは、昭和54年のことであり、今から29年も前のことである。

以前は、プロテスタントの中では、ホーリネス教会系の中で、「聖霊のバプテスマ」「聖霊の満たし」「聖霊のえい満」という言葉が使われていたが、この本では、「聖霊のバプテスマ」は、水の洗礼との関係があるので避けて、「聖霊の満たし」という言葉が使われている。ホーリネス教会系の信仰の中では、この言葉は、異言やいやしの賜物と結びつけて語られていたのではないと思う。そこが違うのかも知れない。しかし、この言葉を、誤解されるということで、ホーリネス教会が使わなくなった時、別に、どんな言葉を使うのだろうか。

それでも、私は、この本の記述は本当なのだろうと思う。私自身は、聖霊の賜物を求めるという気持ちはないけれど、聖霊の満たしを求めるのは当然と思う。そして、それを再臨信仰に結びつけるべきと思う。この再臨信仰に結びつける点は、この運動の中では、誰も語っていないのではないだろうか。

投稿: | 2008年9月30日 (火) 09時21分

私「そうですね。文書としての聖書が人類に与えられたことを重視して、それ以外の昔の方法は停止している、という見解がありますね。たとえば、ウェストミンスター信仰告白の第一章「聖書について」の中に、こんな個所があります。「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」」

あなた「これは、聖霊カリスマ運動への否定的見解を構成する根拠になるのでしょうか」

私「そういうふうに考える人もいると思います」

あなた「しかし、その個所の根拠の聖句は、ヘブル書1・1-2で、そこには、こう書かれています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。この個所は、旧約の時代と新約の時代との対比なのであって、聖霊の賜物が現代では停止されているという意味ではないのではないでしょうか」

私「確かに。しかし、一般的には、初代教会における聖霊の顕著な働きは停止されていると、考えられているのではないでしょうか。聖書が与えられているのだからということで。それが、あの信仰告白の意味なのではないでしょうか」

あなた「しかし、事実は、どうなんでしょうか」

私「もちろん、全く拒否するということではありません。異言やいやしの賜物を受けた人たちの、「聖霊の満たし」のあかしには、異言やいやしの賜物に言及しない人たちのあかしと同様な経験があると思います。今、ウェスレーがいたら、こういう問題に対して、どう考えただろうか、と思います。課題の一つが、ここにあるかも知れません」

投稿: | 2008年9月30日 (火) 12時11分

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