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2008年9月 9日 (火)

確実なこと

デカルトは「我思う、故に我在り」という。西田幾多郎は「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(『善の研究』序)という。

デカルトの発見は、「人間は理性的動物」という定義の、「理性的」の発見であったのではないか。それは、神と人との最初の接触である「創造」を示唆しているかも知れないが、人間の課題は、創造ではなくて、「救い」であり、それは第二の接触であり、そこへと導くものが求められている。そう思う時、デカルトへの不満が起きる。そして、それはデカルト以降の近世哲学への不満にもつながる。デカルトにとっては、信仰は不必要なのだろうか、という問いが出てきそうだ。信仰なしに、人間の確実性に達することが出来ると思われるからである。

西田は、それに対して、救いの原点を指し示して、そこから思索を始めようとしているように思われる。そこで言われる「経験」とは、純粋経験であり、それは、キリスト教の側で考えれば新生体験でもあろう。新生を原点にして思索していくとすれば、それは聖化の道を行く以外にはない。西田は仏教・禅の中での思索の展開であっても、キリスト教にも翻訳できるものがあると思われるのである。

比較すれば、西田の方が実存的である。そして、「近代の超克」の哲学でもあろう。

西田哲学の研究者にキリスト者がいても、それは当然と思われる。

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