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2008年9月17日 (水)

「主の祈り」雑感

教会では、「主の祈り」を祈る。これは福音書に書かれている、イエスの教えた祈りである。

しかし、この時は、十字架も復活も聖霊降臨もなかった。従って、教会もなかった。教会は聖霊降臨から始まるのである。聖霊降臨日は教会の誕生日と言われるが、従って誕生日の前には存在しなかったと考えてもいいのではないか。

ということは、「主の祈り」が教えられたのは、教会が誕生する前のことである。教会が誕生している今、それは、イエスの教えの前にいた人々とは違う視点があるのではないだろうか。

「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
…」

「主の祈り」には、冒頭、こう書かれている。どう解釈するのだろうか。

「御国が来ますように」という祈りを、将来に待ち望む思いの中で祈るのが、一般的かも知れないが、これは聖霊降臨(ペンテコステ)との関係で理解されるべきと思う。御国を「知る」のは、今の我々にとっては、ペンテコステ体験の現在的・個人的実現においてではないだろうか。そして、それは御名を「呼ぶ」ことにおいて実現する。御名を呼び、ペンテコステを体験する、それは今、可能なことである。この基礎の上に、なお、再臨を待ち望む、それが「主の祈り」の、現在的姿勢ではないのだろうか。

教会はペンテコステを忘れる時、教会の本質を失うのだと思う。それは教会の誕生日なのだから、教会の本質が現れた時でもある。だから、教会はペンテコステを覚え、常に強調しなければならないと思う。

しかし、今、ペンテコステ教会というものは異言の主張で「拘束」されている。だから、ペンテコステの強調は「異言の主張」を意味すると思われるかも知れない。しかし、そうでなくてもいいと思う。フィニーは、ウェスレーは聖霊の働きを強調したが、異言について、同じように強調しただろうか。聖霊の働き、ペンテコステの強調が、異言の主張と誤解されるかも知れないということで、それをしないことは、その方が問題があると思う。

「主よ、ペンテコステを、今、世界に」

こんな祈りの中に、教会のリバイバルの原点があるように思う。

祈りは、自分が祈ることでもあるが、実は、教会全体が祈っている。その祈りに合わせるだけなのかも知れない。そして、祈りは、ペンテコステの一瞥を欠いてはいけないと思う。

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