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2008年10月31日 (金)

読書会への誘い

昨日、「吉満義彦をしのぶ会」があり、吉満義彦や、その師であったジャック・マリタンの本を読もうという誘いがありました。

関心のある方には、ご連絡いただければ、ご案内いたします。メール・アドレスは、VEM15720@nifty.ne.jp です。

ジャック・マリタンに関心のある方には、よい機会と思います。リーダーは、彼に関する国際的な研究機関も知っておられて、新しい情報にふれることもできると思います。

私は、小野寺功著『大地の文学』の第三部にある「吉満義彦と遠藤周作をめぐって」を紹介しました。この二人の「対立」と「連続」の洞察、その中に、吉満の新しい見方が生まれるのではないかと思います。

知識階級へのカトリックの弁証が、吉満の師、岩下壮一神父の念願であり、吉満も、その線にあると思います。そして、現代、たとえ、「日本には、西洋の中世がない」ということで、吉満への「対立」を表明しつつも、知識階級への働きかけという点では、遠藤氏もまた、吉満、そして岩下の線上にとらえることができるのではないかと思います。この「対立」と「継続」の両方を見ることが肝要と思います。

私としては、小野寺氏の本の読書会であれば、参加したいと思っています。小野寺氏も吉満に影響を受けられた一人でした。

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2008年10月28日 (火)

メソジスト

メソジスト 方法重視 されどなお
 熱狂主義と 矛盾同一

霊重視 熱狂主義と 紙一重
 中庸を行く 矛盾なれども

世紀経て ペンテコステの 信仰に
 熱狂主義の 要素ありかと

最近の聖霊カリスマ刷新運動はペンテコステ教会の信仰と重なる要素が多いと思います。そして、聖霊カリスマ刷新運動はプロテスタントだけでなく、カトリック教会の中にも信奉する人々があり、教会としても支持されているようです。聖母文庫『霊の賜物とカリスマ刷新』(フランシス・サリバン著、小林有方訳、聖母の騎士社)が、参考文献としてありますが、カトリック教会とペンテコステ教会の信仰の一致に関して、貴重な文献と思います。

さて、熱狂主義は、ウェスレーの信仰への批判の中に言及された時もあるかと思いますが、彼は、それを退けたと思います。しかし、そこには、重なる面もあったのではないかと思います。でなければ、批判が起きなかったと思います。そして、退けた一面の中に、外部から提供された、方法重視を意味するメソジストという名前があったとすれば、そこには、絶対的矛盾同一という西田の論理が隠されていたようにも思います。

熱狂主義とメソジスト、ホーリネス、ペンテコステの信仰との関係などに興味があります。そして、クエーカーとも、どんな関係があるのでしょうか。

霊性という言葉が、最近はよく聞かれます。キリスト教会では、聖霊との関係の中で考えられるものでしょう。では、キリスト教会の歴史の中で、この信仰がどういう現れ方をしたか、そして、どういう評価を得てきたか、そういう方向に関心を向けてもいいのではないでしょうか。

「熱狂主義の研究」。こういうテーマの研究は、余りないように思いますが、あってもよいのではないかと思います。

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2008年10月27日 (月)

消去の仕方

数独で、行き詰った問題も、少し間をおいてから、再度、考えてみると、前進し、解決する場合もある。以前、解けなかった問題も、解けるようになった。私の場合、以前、解けなかった問題も解けるようになったが、ただ、一つはなお未解決である。

その時、消去の仕方を考える時、最小のマスの予約数字の数の少ないマスを取り上げることが肝要である。当然のことだ。二つ、あるいは三つの予約数字の入っているマスに着目する。3×3の枠の中に、二つの予約数字で、同じものが二つある時には、縦筋、横筋、そして、3×3の枠の三つを検証することである。その時、3×3の枠の検証を忘れる場合もあるが、この点に気づけば、消去が進んでいくこともある。

それから、マスを三つ、予約数字で確定してしまうこともあり得る。これは、マス三つを取り出して、二つの予約数字のマスの中で、一つ一つ数字を入れてみれば分かること。三つで数字が確定すれば、これでも消去は進んでいくことがある。

それにしても、数独を解く「原理」は、いたって簡単なものである。分かってしまえば、なんだ、ということになるかも知れない。

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2008年10月26日 (日)

ノーベル賞

現代の デモクリトスの  後継者

  ノーベル賞の 栄誉を受けて

  素粒子物理学の第一の先駆者はデモクリトスではなかろうか。

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2008年10月17日 (金)

ラーナーの先駆者

カール・ラーナーは「無名のキリスト者」という発想を、どこから得たのだろうか。その時、2世紀の弁証家、ユスティノスが主唱した「ロゴス・キリスト論」との類似を思う。

ここに「無名のキリスト者」の元型があるのではないだろうか。

第二バチカン公会議は、教会を包括主義へと大胆に舵取りした会議であったと思う。それ以前は排他主義であった。

1905年に、ローマ教皇ピオ10世により作成された『公教要理詳解』などを読むと、そう感じる。この本は、日本では、第二バチカン後の昭和49年に、財団法人精道教育促進協会から発行されている。

その第二バチカンの精神を端的に表しているように思われるのが、私にとってはラーナーの「無名のキリスト者」の着想である。そして、これは、多元主義まではいかない、包括主義的信仰理解と思う。これにより、プロテスタントや、他の諸宗教との関係も、それ以前とは劇的に変化することになった。

さて、その考え方は、第二バチカンで、またラーナーにおいて、突如、キリスト教会史に登場したのだろうか。

いや、そうではない。二世紀の活躍したユスティノスに、その考えの萌芽があると思う。彼の『第一弁明』(150年ころ)を読めば、あるいは、これが包括主義の原点かとも思う。

第二バチカン後を生きる教会が、ユスティノスに着目し、自己の歴史形成の原点を検証してもいいのではないだろうか。

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2008年10月15日 (水)

一応、満足

数独と出合うことができたのは、私にとって幸いなことであった。解法に関しては、今、一応、満足の行くところまで来たかと思う。それは、やはり「枚挙・消去法」(これは私の命名である)であった。行き詰った時に、何かのテクニックがあるのかと思うが、それも、簡単な理屈によるものである。

解法には、いくつかのステップがある。最初は全体を見回して、同一の数字が、9つある小さな枠(この枠の中に、また9つのマスがある)の中に二つあれば、他の一つの枠の中に該当個所を、ある程度、簡単の見つけることができる。こうして、最小のマスを数字で埋めて行き、そのあとは、マスに入る数字を全部、枚挙していくのである。その時、4つを標準にして、書き込んでいく。このマスは、4つから6つまで入れるのがいいと思う。

この段階が終われば、あとは、消去していくだけである。もちろん、枚挙していく段階で、数字が確定すれば、どんどん確定させていくべきである。

その時、簡単なところから始めるべきである。デカルトも、そんなことを言っていたと思う。問題を解決する方法は、簡単なところから始め、それを確実にしていき、その上に、新たな展開を考えればいいのである。こういうことを、体に教え込むことができるので、数独は問題解決に取り組む上で有益なパズルと思う。

こうして、やってみると、9割くらい解けている。しかし、以前、解けなかった問題があり、それは、今、ある程度、要領が分かったと思える段階で、再度、挑戦してみたが、それでも分からなかったものがある。この点については、何か、テクニックみたいなものがあるのかも知れないが、それは、今の私には隠されている。

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2008年10月14日 (火)

親鸞への疑問

親鸞の絶対他力信仰には共鳴している。しかし、信仰の結果を問う弟子に対して、『歎異抄』の中で、信仰の喜びについては、何かあいまいな回答をしている。師の法然を信じている、そして、私の教えは法然の教えなのだというのが答えであった。

この部分は、私には分からない。もし、自分が信仰の結果として、何か心の深くに感じることがなければ、信仰を続けることができないだろう。その何かとは、聖霊体験である。最初は新生において、そして、その、ある意味での「反復」としての聖化において、聖霊は人間に、ある意味で感じられるものである、と思う。

「色即是空と空即是色」、そして「身心脱落と脱落身心」、その転換には、キリスト教的に言えば聖霊体験があるのだと思う。否定から肯定への転換が必要であり、それは人間に「知られる」ものではないだろうか。

信仰の結果を聞く弟子に対しての親鸞の答えは、私には、理解できない。結果は現世利益を求めるものとだけ考える必要はないと思う。

もちろん、結果を求めないという姿勢が信仰なのだということであれば、それにも一理あるかも知れない。しかし、信仰には、将来を待ち望む姿勢の堅固さと同時に、現在でも何らかの、神からの応答を期待してもいいのではないか。

キリスト教では、それを「恵み」と言う。恵みの体験は現在の体験である。それに励まされて、将来にも期待することができる。いや、「恵み」の経験とは、永遠の質を知るという意味でもある。

親鸞の回答には、その恵みの体験が「ない」と、言っているように思えた。もちろん、それでいいのかという問いはあろう。解釈によって、「ない」という回答の中に、実は「ある」という別次元の効果を隠しているのかも知れない。

しかし、同じ仏教でも、禅の場合には、自覚、悟りの中に、体験的要素があると思う。浄土真宗とは対極的な禅の教えの中に、親鸞の「限界」を超えるものが、あると言えないだろうか。

キリスト教の「恵み」の体験の原点は聖霊降臨という歴史的な出来事に由来している。教会は、その日に誕生したという。これは、何も、ある教派の主張ではなく、全キリスト教会の主張と思う。

信仰は、それによって、聖霊が魂に降ることにつながらなければ、そして、常にそれが継続しているのでなければ、どうして維持できるのだろうか。そんな問いを感じる。

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2008年10月 8日 (水)

聖霊の時代

使徒言行録の第2章に聖霊降臨の出来事が記述されている。教会の誕生日だと、言われる。しかし、そのことに教会は余り関心がないかも知れない。関心の強い順から言えば、クリスマス、イースター、そしてペンテコステ(聖霊降臨日)となるだろうが、信仰者の心の中では、これは逆でなければならない。

聖霊カリスマ運動があり、異言(カトリックでは異語というらしい)という、聖書には記述があるが、それまで余り語られることのなかった現象が、今、語られるようになった。今、と言っても、だいぶ前からのことではある。

あの初代教会のこと、使徒言行録に書かれていることが、そのまま、現代にも復興されたのかどうか、それは知らない。しかし、個人の信仰生活の最初からその過程全体を通して、聖霊の体験が最も重要であることは、その通りであると思う。その重要性を再確認させる意味を考えれば、聖霊カリスマ運動は、プロテスタント・ペンテコステ教会以外の信徒にも、大きな意味を持っていると思う。

イエスの十字架の死、その後の復活、昇天そして聖霊降臨と続く出来事が聖書に書かれているが、誰でもが認める歴史的事実は十字架上での死去までではないだろうか。

復活も昇天も、正確には、われわれには「分からない」。なぜなら、我々は、その時に居合わせたのではないからである。しかし、聖霊降臨は、われわれにも「分かる」。それは、信仰の中で、誰でもが体験できることだからである。聖霊が降って、新生があり、聖化がある。聖霊がくだらなければ、新生も聖化も、信仰生活の根本が分からなくなる。そして、これが根拠になって、復活と昇天もまた、受け入れることができるようになる。

ところが、この聖霊降臨は、聖書によれば、生前のイエスの約束であった。そして、その約束が成就したのである。だから、再臨も、イエスの言われたとおりに、「見える形」で再臨されると、信じることができるのではないだろうか。聖霊の働きの目標として。その時、聖霊の時代、教会の時代は終わるのであろう。

ということは、教会の時代というのは、聖霊の時代と言ってもいいと思う。このような見方へと導くとしたら、聖霊カリスマの運動も大いに評価されるべきである。

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ノーベル賞を受賞

小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授がノーベル賞を受賞することになりました。長女の談話の中に、「普段は自宅でごろごろしていて、テレビゲームや数独をやっている普通のお父さん」という談話が新聞(毎日081008)に載っていました。

ノーベル賞と数独との関係は、たまたまノーベル賞の頭を持っている人が数独をしていたというだけで、逆も真とはいえないでしょう。あたりまえのことだ。

それにしても、テレビゲームは、小生はまだ挑戦していませんが、今でもやろうという気は起きません。

数独の方は、大体、コツが分かりました。

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2008年10月 7日 (火)

生の目標

可能性 自己実現の 一つなり
 神探求と 同じことなり
 
神を求めるということは、真の自己を求めるということと同じことである。だから、信仰は、自己実現につながるのである。そして、自己実現は、自己の唯一の可能性である。ということは、信仰の最も強力な動機付けである。そのように信仰概念を変革しなければならない。西田幾多郎が、『善の研究』の最後の方で、有神論への批判、そして汎在神論的アプローチを目指しているのは、そこに真意があると思う。

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2008年10月 5日 (日)

死を祝う

映画「夢」 翁が踊る 死を祝う
 なぜの問いあれ 生の反省

なぜ生きる 問わずに生きる 人多し
 答えを知らず されどあるかも

神求む 生の目的 そこにあり
 さらば神とは 問う声はなし

西田読む 賛同多し 古典なり
 仏基の対話 深まりを期す

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