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2008年10月14日 (火)

親鸞への疑問

親鸞の絶対他力信仰には共鳴している。しかし、信仰の結果を問う弟子に対して、『歎異抄』の中で、信仰の喜びについては、何かあいまいな回答をしている。師の法然を信じている、そして、私の教えは法然の教えなのだというのが答えであった。

この部分は、私には分からない。もし、自分が信仰の結果として、何か心の深くに感じることがなければ、信仰を続けることができないだろう。その何かとは、聖霊体験である。最初は新生において、そして、その、ある意味での「反復」としての聖化において、聖霊は人間に、ある意味で感じられるものである、と思う。

「色即是空と空即是色」、そして「身心脱落と脱落身心」、その転換には、キリスト教的に言えば聖霊体験があるのだと思う。否定から肯定への転換が必要であり、それは人間に「知られる」ものではないだろうか。

信仰の結果を聞く弟子に対しての親鸞の答えは、私には、理解できない。結果は現世利益を求めるものとだけ考える必要はないと思う。

もちろん、結果を求めないという姿勢が信仰なのだということであれば、それにも一理あるかも知れない。しかし、信仰には、将来を待ち望む姿勢の堅固さと同時に、現在でも何らかの、神からの応答を期待してもいいのではないか。

キリスト教では、それを「恵み」と言う。恵みの体験は現在の体験である。それに励まされて、将来にも期待することができる。いや、「恵み」の経験とは、永遠の質を知るという意味でもある。

親鸞の回答には、その恵みの体験が「ない」と、言っているように思えた。もちろん、それでいいのかという問いはあろう。解釈によって、「ない」という回答の中に、実は「ある」という別次元の効果を隠しているのかも知れない。

しかし、同じ仏教でも、禅の場合には、自覚、悟りの中に、体験的要素があると思う。浄土真宗とは対極的な禅の教えの中に、親鸞の「限界」を超えるものが、あると言えないだろうか。

キリスト教の「恵み」の体験の原点は聖霊降臨という歴史的な出来事に由来している。教会は、その日に誕生したという。これは、何も、ある教派の主張ではなく、全キリスト教会の主張と思う。

信仰は、それによって、聖霊が魂に降ることにつながらなければ、そして、常にそれが継続しているのでなければ、どうして維持できるのだろうか。そんな問いを感じる。

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