« 洗礼の問題 | トップページ | 生の目標 »

2008年10月 5日 (日)

死を祝う

映画「夢」 翁が踊る 死を祝う
 なぜの問いあれ 生の反省

なぜ生きる 問わずに生きる 人多し
 答えを知らず されどあるかも

神求む 生の目的 そこにあり
 さらば神とは 問う声はなし

西田読む 賛同多し 古典なり
 仏基の対話 深まりを期す

|

« 洗礼の問題 | トップページ | 生の目標 »

コメント

映画「夢」の監督は黒沢明氏だった。あの翁を演じたのは笠智衆さん。不思議な迫力を感じた。
西田は、西田幾多郎。西田への関心は、小野寺氏の本の影響で、『善の研究』を読んだ。詳細に注のついた文庫本だった。多くの点で、共鳴した。「純粋経験」とは、聖霊体験と類似していると思う。聖霊経験から哲学すると、どうなるのだろうか。それがキリスト者への、西田哲学の問題提起ではないのだろうか。

最後には、宗教が取り上げられている。有神論ではなく、汎神論的な、いや汎在神論的なアプローチを重視しているという。このあたりにも、聖霊体験から始めよ、というメッセージを聞く思いがする。

西洋の歴史的中世はキリスト教中世であった。それはギリシャ哲学思想との交渉から生まれた。その時、自然神学が信仰の前段階として容認され、その段階で、啓示の絶対他者性が、少し水増しされたのかも知れない。そんな自然神学的思弁は、東洋、あるいは禅の世界では不要である。そんな思いが伝わってくる。

そこでは、悟りとは何かといえば、新生体験と対応しているのではないだろうか。だから、西田がキリスト者に言う言葉があるとすれば、新生・聖化を中心にして、哲学してみたらどうか、という勧めのような気がする。そして、言われてみれば、こういう着想を展開していったキリスト者はいなかったのではないだろうか。

もし、「新しき中世」が、西洋的、歴史的中世とは違う、もっと、東洋人としてのわれわれに合ったものを志向するのではあれば、西田はなお学ばれ、そこから多くのヒントが得られる、稀有の思想家のように、私には思われるのである。

投稿: | 2008年10月 5日 (日) 14時14分

エデンの園での人間の経験が純粋経験かも知れないと思った。追放後の人間には、この経験は不可能であろう。主観・客観の分裂がある。それは科学的な意味ではなく、宗教的な意味である、と思う。罪が真実な認識を不可能にしているという意味である。しかし、新生は、エデンの園における経験の回復であり、聖化は、その前進である。新生、聖化の過程を前進しているキリスト者には、エデンの園での経験が、ある意味で回復している。だから、西田哲学のモチーフは、キリスト教の中でも、解釈され、新たな展開への刺激となる可能性を秘めているのである。

投稿: | 2008年10月 5日 (日) 22時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 洗礼の問題 | トップページ | 生の目標 »