« ノーベル賞を受賞 | トップページ | 親鸞への疑問 »

2008年10月 8日 (水)

聖霊の時代

使徒言行録の第2章に聖霊降臨の出来事が記述されている。教会の誕生日だと、言われる。しかし、そのことに教会は余り関心がないかも知れない。関心の強い順から言えば、クリスマス、イースター、そしてペンテコステ(聖霊降臨日)となるだろうが、信仰者の心の中では、これは逆でなければならない。

聖霊カリスマ運動があり、異言(カトリックでは異語というらしい)という、聖書には記述があるが、それまで余り語られることのなかった現象が、今、語られるようになった。今、と言っても、だいぶ前からのことではある。

あの初代教会のこと、使徒言行録に書かれていることが、そのまま、現代にも復興されたのかどうか、それは知らない。しかし、個人の信仰生活の最初からその過程全体を通して、聖霊の体験が最も重要であることは、その通りであると思う。その重要性を再確認させる意味を考えれば、聖霊カリスマ運動は、プロテスタント・ペンテコステ教会以外の信徒にも、大きな意味を持っていると思う。

イエスの十字架の死、その後の復活、昇天そして聖霊降臨と続く出来事が聖書に書かれているが、誰でもが認める歴史的事実は十字架上での死去までではないだろうか。

復活も昇天も、正確には、われわれには「分からない」。なぜなら、我々は、その時に居合わせたのではないからである。しかし、聖霊降臨は、われわれにも「分かる」。それは、信仰の中で、誰でもが体験できることだからである。聖霊が降って、新生があり、聖化がある。聖霊がくだらなければ、新生も聖化も、信仰生活の根本が分からなくなる。そして、これが根拠になって、復活と昇天もまた、受け入れることができるようになる。

ところが、この聖霊降臨は、聖書によれば、生前のイエスの約束であった。そして、その約束が成就したのである。だから、再臨も、イエスの言われたとおりに、「見える形」で再臨されると、信じることができるのではないだろうか。聖霊の働きの目標として。その時、聖霊の時代、教会の時代は終わるのであろう。

ということは、教会の時代というのは、聖霊の時代と言ってもいいと思う。このような見方へと導くとしたら、聖霊カリスマの運動も大いに評価されるべきである。

|

« ノーベル賞を受賞 | トップページ | 親鸞への疑問 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ノーベル賞を受賞 | トップページ | 親鸞への疑問 »