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2008年11月11日 (火)

聖霊降臨運動

『聖霊降臨運動』(エドワード・オコーナー著、小林珍雄訳、エンデルレ書店)という本がある。副題には「カトリック教会における」とある。1976年に出た本で、32年前の本である。「聖霊のバプテスマ」とか、「異言」とか、ペンテコステの信仰の復興は、プロテスタントの教会の中で、以前、盛んであった。その流れの中で、聖霊派という言葉も生まれ、福音派との関係が、いくらか緊張した時もあった。しかし、今は、和解の空気が生まれて、共に、日本のプロテスタント宣教を担う方向で協力関係が育っているようである。

さて、『聖霊降臨運動』に、こんな個所がある。

「聖霊降臨運動は、たしかに、われわれの宗教実践に定着し慣習となった思想・態度・動作のある型を破ったという意味で、新しくなじみの淡いものである。しかし前章にもふれたようにこれらの型は、キリスト教霊性の真の伝統を示すものではなく、凡人に合わせたものである。それは福音と世界との妥協の結果なのである。こうして、祈りを唱え典礼を執行する機械的な方法、多くの司祭事務所で行われている商法的活動、ミサに心をこめずあづかることなど、これらは維持されるべき生活法ではなく、活力が再び自由に流れるために、ぬぎすてられるべき死んだ甲殻にすぎないのである」(173頁)

これはカトリック教会について書かれたものである。そして、「宗教実践に定着し慣習となった思想・態度・動作のある型」が「凡人に合わせたもの」であり、「福音と世界との妥協の結果」とある。こういう一面が、この教会にはあるのだろう、と思う。あのローマ帝国の国教となってからの、大衆向けの宗教実践の提示の中には、「凡人向け」「妥協の結果」といった面があるのではないだろうか。しかし、それは、全部がそうだというのではなく、だから「ある型」というのであろう。しかし、興味ある指摘と思った。

さて、カトリック教会の中における聖霊降臨運動は、現実のものであるとは言われていたが、資料や文献がなくて、関心はプロテスタントの運動に偏っていたが、これは、少ない文献の一つであると思う。それも、貴重な信頼できるものであろう。私が、これまで読んだ文献では、どれも、この運動に好意的であり、真っ向から批判しているものはなかった。もし、全否定するとすれば、コリント書における聖霊の賜物の記事を、どう読むのか、それが問われるであろう。そして、「今、異言がない」とすれば、そして、「聖書の真実を守ろう」とすれば、そこには聖書の解釈によって、今の現実を説明するほかないであろう。しかし、異言はじめ、聖霊の賜物は、今もある、という見解が正しいように思われる。

しかし、あの聖書の書かれている「聖霊の賜物」が、今も「ある」としたら、そこでは、どういう解釈がありうるのだろうか。

「この運動に情熱的にうちこんでいる人々は、本当のキリスト教はこの運動ではじまるとさえ考える傾向がある。暗黒時代は、コンスタンチヌス大帝(306-337)から現代(聖霊降臨の時代)まで及び、ただその間微光が短期間かがやいただけだと確信している人さえいる」(173-174頁)

コンスタンチヌス大帝の時代、国教化は、キリスト教の勝利を意味すると考えられているかも知れないが、それは暗黒時代の最初という見方もあるというのだ。中世の暗黒時代の幕開けが国教化ということなのだろう。異なる中世観がある。

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コメント

この本の最後に、ヨハネス23世の、聖霊降臨を待望する祈りが紹介されている。

カトリック教会における、カリスマ刷新に関する運動の発端から始めて、その全般的評価にまで至っている、この本は名著ではないだろうか、と、そんな印象が残った。

投稿: | 2008年11月13日 (木) 06時06分

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