« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月30日 (金)

「毎朝、玄関の花に水をやってください」
そう言い残して、妻は病院に向かった

花に水をやることは、
私の朝の習慣となった

朝、玄関の小さな鉢の中で花が開いている
精一杯に大きく、そして生気に満ちている

命は
毎日の水に支えられているようだ

「瑞々(みずみず)しい」に「水」の字は使わないが
それは水によって命の充満を示しているようだ

花と同様
魂にも水が必要だ

地球には海があり
満々と水をたたえているのに

なぜか水の恩恵にあずからない
渇いた魂も多い

砂漠の中のオアシスは
水のある所である

オアシスは
どこにあるのだろう

聖書には、こう書かれている
「渇いている人はだれでも、
わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、
聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が
川となって流れ出るようになる」
(ヨハネ7・37-38)

あなたには、もう
言い逃れはできないだろう。

神の救いの手を拒否しているのは
あなた自身なのだから

| | コメント (0)

2009年1月28日 (水)

読書会の持ち方

昨年、吉満義彦を偲ぶ会で、参加者の一人が読書会の提案をされました。どういう案が出てくるのか、今、待っています。

2か月に1回、あるいは、年4回と、どこかに集まることを考えられているのかも知れません。そうなると、集まる人も限られるし、また、都合のつかない人も出てくるかも知れません。しかし、このようなあり方のみが、読書会の持ち方なのでしょうか。

現代のIT社会では、もっと別の読書会の持ち方があってもいいのではないでしょうか。例えば、電子掲示板を利用し、会員のみ書き込みを許可するとか。

ブログの場合には、どうしても個人の「日記」風になりますので、その人以外はコメントでの発言のみとなり、どうしても会員が自由に発言する場にはなりません。やはり、掲示板がいいと思います。

今は、無料掲示板もあります。それらを利用して、読書会をしてみるのも、一案ではないでしょうか。

以前、「ハレルヤ ハレルヤ」という、キリスト教の電子会議室がありました。なかなか、面白かったのを覚えています。しかし、同時に、文章のみの情報のため、勘違いもあるし、緊張もありました。管理人は大変だったと思います。

その点、ブログは、そういう緊張はないのですが、テーマを深めることには限界があると思います。一長一短があるということでしょうか。

現代における読書会として、掲示板の利用も一案かと思います。

| | コメント (0)

2009年1月25日 (日)

築山殿

戦国の 世にある夫 主(あるじ)代え
 それを恨んで 妻は消えゆく

夫行く 出世街道 その邪魔に
 妻の言い分 顧みられず

悪妻の 評はあれども 家康の
 寝返りのため その犠牲かも 

| | コメント (0)

元厚生省事務次官殺人事件

犬のため 人を殺して 胸を張る
 綱吉御世の 事件にあらず

報道が パタリと止みて その論理
 否を言えずか 沈黙続く

| | コメント (1)

2009年1月23日 (金)

バルト神学

論争の バルトを読みて その心
 絶対他力の ルターを継ぐか

論争とは、ブルンナーとの間でなされたもの。後年のバルトを見れば、両者には強調点の違いがあるが、絶対の対立ではないと思う。バルトは、この論争で、絶対対立のような雰囲気をかもしだしたが、その背景には、置かれた困難な社会環境があったのではないだろうか。その点では、文庫本で読んだ小田切雅也の、この点の解釈に賛同したい。

かつて、バルト神学に魅せられた人たちがいた。しかし、トマス・アクィナスは、バルトを否定はしないだろう。トマス神学の存在の類比は、どこか、西田の絶対矛盾的自己同一に似ている。弁証法のふるさとが、このあたりにあるかも知れない。

| | コメント (0)

2009年1月21日 (水)

教会診断

日本の教会は不振だという。洗礼を受けても、すぐに教会を離れる信徒が多いという。どうしたらいいのだろうか。

洗礼は新生のしるしである。そして、新生のあとには聖化が続く。その聖化こそ、信徒の生き方なのだ。その生き方に問題があるのではないか。聖化のゴールは、どうなっているのか。そのゴールへの途上に生きがいがあれば、信徒は健全に成長するはずではないか。

聖化は何かについて、教会では、どう教えているのだろうか。その時、聖霊の賜物のことを思う。聖霊の賜物を求めていく、それが聖化の道なのではないだろうか。

これはペンテコステ教会に転会することを意味していない。コリントの信徒への手紙は、聖書の中にあり、聖霊の賜物について言及されている。それらは、信徒の生き方の中で、自分たちのものとして自覚されていかなくてはならない。その点の反省があれば、信徒は教会からはなれることはなくなるのではないだろうか。

異言、預言、癒やし、それらの聖書の記述を、今、我々はどう受け止めるのか。誤読があるかも知れない。しかし、その道を進む以外に、道はない。聖霊の賜物の、現在の生活における展開が必要だ。

「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」(ヘブライ人への手紙6・2)といわれている。

| | コメント (0)

2009年1月14日 (水)

須賀敦子のこと

1998年に亡くなった須賀敦子というカトリックの女性については、私は余り知りませんでした。いや、全然、知りませんでした。しかし、昨年、神谷光信さんが出された本に『須賀敦子と9人のレリギオ』(神谷光信著、日外選書)があり、ここで取り上げられている別の人物への関心から本を購入し、おまけに須賀という人についても、いくらかの知識が与えられました。

最近、須賀について読んだものに「須賀敦子の足跡 異端者の信仰とその祈願」(若松英輔)という評論があります。若松氏は、第14回三田文学新人賞を受賞された方で、この評論は『三田文学』(2007夏季号、No.90)に掲載されています。

なつかしい名前がたくさん出てきました。エマニュエル・ムーニエという人物については、昔、大学生時代に、図書館で本を読んだ覚えはあるのですが、余り、記憶に残っていませんでした。しかし、マリタンとか、ベルジャーエフとか、気になる人物が登場し、また、当時の様子が描かれていて、断片的知識がいくらか関係づけられたように思います。マリタンは、吉満義彦がフランスで教えを受けた先生でした。

マリタンについては、ルター、デカルト、ルソーについて書いた評論が日本語で読めますが、そのルター論は、どうなんでしょうか。

若松氏の評論は力作と思います。須賀敦子に関心を抱く人は、是非、一読する必要があるでしょう。神谷さんも、既に読んでおられるかも知れません。カトリックの本格的な評論活動が、ここにあると思いました。プロテスタントの中では、こういう作品は、余り紹介されていませんが、カトリックの中では、ここで取り上げられている須賀さんの歩んだ世界は、やはりフォローしていかなくてはならないだろうと思います。

評論は、「たしかにキリスト者としての須賀敦子の研究は緒についたばかりに違いない」という言葉で終わっています。

しかし、一つ、気になるのは、須賀における信仰・思想の環境が、日本ではなく、フランスであり、イタリアであるということです。遠藤周作と同じような、自分に合ったキリスト教を追い求めてきたといっても、日本の人たちに、その作品は、どういう形で受け入れられるのか、それが少し、気になります。遠藤の場合は、題材にキリシタンを選んだので、これは西洋ではなく、まぎれもなく日本の問題でした。

「須賀敦子研究」は、これから、いろいろな人によって展開されていくのでしょうが、日本という場に生きる人たちに、どういうふうに語っていくか、それも課題の一つになるかも知れません。

| | コメント (0)

内在的超越

神に至る道では、内在的超越は、超越的内在とは対立関係にあると思われるだろう。超越的内在の中で、連想されるのはトマス・アキィナスかも知れない。しかし、彼は言う。

「恩寵の賜は本性を打ち消すことなく、かえってそれを完成するという仕方で本性の上に加えられる。それが為に我々のなかに無償に注ぎ入れられた信仰の光は、我々が本性上共にさずかった自然的な知識の光を消さないのである」
「恩寵は本性を毀さず、かえって、それを前提要件として完成するものである」
(『トマス・アクィナス 言葉の鎖』ヨゼフ・ピーパー編著、エンデルレ書店、140頁)

これらは、内在的超越の道をも示唆しているのではないだろうか。諸宗教対話の道においても、有効なキーワードではないだろうか。トマスは、第二バチカン「以前」の人と思うなら、それは違うのではないだろうか。第二バチカン後の対話の道においても、トマスはやはり道案内をしてくれるのではないだろうか。

| | コメント (0)

解き方のコツ

数独の難しい問題に挑戦していますが、どんな難しい問題でも解けるものだと思います。

そのコツは、予約数字にしるしをつけることです。予約数字というのは、タテ列、ヨコ列、3×3枠のどれでもいいのですが、予想数字(確定数字への可能性のあるすべての数字)の中で、二つに絞られたものです。

以前は、予想数字から直接、確定数字に進もうとしていました。そうすると、やはり、行き詰まりの時が来ると思います。

同じ二つの予約数字が、一つの最小マスの中に現れた時、また予約数字が三つになった時、それは、予想数字の消去が進む時です。しかし、この処理は、予約数字に着目しなければ、できません。

枚挙・消去法は、予想数字から予約数字を経て、確定数字に進む方法で、この方法を基本にして、どんな数独も解けると思います。

| | コメント (0)

2009年1月13日 (火)

告白と生きること

「「告白」のことばは、いつの日にか、生きることによってそれを証しなくてはならないときが必ずやって来る。そうすることが、告白を真実の意味で「告白」たらしめる。そのとき、その人間が生きた道は、その人以上の何かを告げ知らせるのである」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、52頁)

いい言葉と思いました。

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10・10)の言葉を思い出しました。

「告白」と「生きる」こととの関係が、「心で信じる」ことと、「口で言い表す」ことの関係に似ていると思いました。

あるいは、「口で言い表す」が「告白」であれば、「告白」の前に、「心で信じる」ことが先行するのでしょう。「心で信じる」という、その人だけのささやかな変化が、やがて告白になり、行為になり、その人の予想もできないくらいの広がりへと、何かを伝えていくのかも知れません。

それはまた、新生と聖化との関係でもあるかも知れません。

新生は聖化のスタートであり、真の新生は、必ず、その人に聖化の道を歩ませるものだと思います。

この点は、絶対他力の浄土真宗や、プロテスタントの「信仰のみ」の強調の周辺に、悪い行為を生む可能性があるとの疑問が出ていたと思います。しかし、もとルター派の故北森嘉蔵氏は、信仰が真実であれば、必ず良い行為が伴うと考えていたと思います。

真の義認は、必ず良い行為を生み出すものだと思います。プロテスタントとカトリックでは、これまで、この両者の関係では重点の置き方が違っていたと思いますが、今では、ルター派とカトリックとの間では、信仰義認での合意ができています。

そして、聖化の道を歩む者においてのみ、新生のメッセージが真実なものとなる。そう読むことも出来ます。その時、その人の生きた道において、神が人々に何かを語っているともいえる。もちろん、それは「新生と聖化」への招きです。それが、「その人間が生きた道は、その人以上の何かを告げ知らせるのである」の意味であろうかと思いました。

| | コメント (0)

「この世の王」

「「召し出し」という言葉がある。カトリック教会内で用いられる一種の隠語で、この世の王たるキリストがその人を「召し出し」、牧者(司祭)に選ぶという信仰を表す。越知保夫は、わがキリストは自らを教会から連れ出し、民衆の前に出よと「召し出し」た、そう信じていたに違いない」
(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、43-44頁)

「イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。…」(ヨハネのよる福音書18・36)。だから、「この世の王たるキリスト」の意味が、少し分かりません。

もちろん、復活のキリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイによる福音書28・18)と言われているので、その限りでは「この世の王」でもあるかも知れません。

また、ローマ帝国の中でキリスト教が国教になった時も、そんな観念が強められたかも知れません。

アウグスチヌスの活躍は国教下でしたので、彼の考えには、その現実の影響があったかも知れません。しかし、また、国教としてのキリスト教の限界を知っていたのかも知れません。そんな思いが「神の国」にあるのでしょうか。近世、そしてプロテスタンティズムの予見も、そこにあるのかも知れません。

| | コメント (0)

マルクス主義

「後年、中村光夫は、唐木順三との対談で、その青春時代を振り返って、マルクス主義は単なる「思想」ではなく、一つの「宗教」として自分たちの前に現れたという。
 中村光夫がマルクス主義を「宗教」だというのは、そのドグマが宗教的だったからではない。むしろ、当時多くの青年たちが、その「思想」にささげた情熱が宗教的だったからだ。宗教でないものに、宗教的な情熱を捧げなくてはならなかったというところに、マルクス主義と昭和10年代の青年たちの悲劇がある」
(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、41頁)

マルクス主義は宗教に対立・敵対していると思っていました。宗教を「民衆の阿片」という、有名な言葉があるのですから。しかし、その宗教性を、ベルジャーエフは徹底的に解明していると思います。だから、マルクス主義が「宗教」として現れたという中村氏の言葉に違和感はありません。むしろ、その宗教性の中に、マルクス主義の本質があるのかも知れないとも、思います。

| | コメント (1)

2009年1月12日 (月)

信と知

「この思想家が、ある日、雑誌社に請われて遠藤周作と対談した。そこで遠藤周作は、キリストを信じているか否か、それは自分が死ぬまでわからない、といったというのである。森有正はその遠藤周作の言葉に深く動かされたという。さらに、確かに遠藤周作の言葉どおり、信仰とは生きて証しされるべきものであり、決して語られ得るものではないのだろうと森有正はいっていた」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、38頁)

「この思想家」とは森有正です。

以前、ここで、歎異抄の中で、信仰の結果に対する唯円の問いに対し親鸞が答えた回答に、少し疑問を感じていると書いたことがありましたが、森有正との対談での遠藤周作の答えにも、それに通じるものがあるように思います。

しかし、遠藤は、ここで何を言いたかったのか、また、森は、どうして深く動かされたのか、よく分かりません。

信仰の結果としての新生と聖化は、生きている間に、「分かる」ものではないかと、私は思います。

「「人生の大事を決定するのは、賭けと祈りの熱情である」中村光夫はあるところでいっている」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、57頁)ようですが、この「賭け」に対応するのが「新生」であり、祈りに対応するのが「聖化」ではないか、とも思いました。

要するに、人間の一生は、新生と聖化の道です。ある意味で、それに尽きるかも知れません。救世軍では、「救いと潔め」といっています。

あるいは、遠藤周作は別のことを言いたかったのかも知れないし、森は、それに感動したのかも知れません。聖化の確実性への疑問の表明なのかも知れません。しかし、聖化は栄化の確実性を持っていないとしても、それを目指すものであり、知られるものと思います。ですから、知の対象でもあります。このあたりは、ジョン・ウェスレーは、はっきり言っていると思います。

| | コメント (0)

2009年1月11日 (日)

多元主義か?

「「玉ねぎがキリスト教の中だけでなく、仏教にもヒンドゥー教のなかにもおられる」という大津の祈りの対象こそ、つねにキリストに向けられているとは言いながら、このスタンスはいわゆる「多元主義」的なキリスト教理解であり、カトリックの公式な見解「包括主義」の枠を踏み越えている。もちろんこのスタンスこそ『沈黙』における遠藤のキリスト教理解の延長線上にあるキリスト論であり、文学的には面白いがカトリックの司祭の言葉としては問題を孕むところである」(「『深い河』と母の顔」兼子盾夫、『三田文学』No.90、276頁)

かつて、『深い河』は多元主義ではなく、包括主義なのだ、といった解釈があることを、紹介したと思うが、ここでは、包括主義の枠を超えて、多元主義になっていると、解釈されている。もちろん、神父としては不適格の烙印を押された大津の立場が著者の立場というのではないだろうけれど。著者は「包括主義」、との解釈は、別の個所を引用していたと思う。「玉ねぎ」とは、聖霊を指すのだろうか。

日本にいて、ヒンドゥー教徒やイスラームの人たちには、余り出あうことはないかも知れないが、仏教の人は多い。そんな中で、大津のスタンスには、理解できるものがあると思う。仏教徒で、キリスト教徒よりも人間的に立派と思える人は、いくらでもいる。

さて、多元主義というのは、現実的な出発点と思う。他者を尊重する姿勢は、多元主義の中でのみ保証されるのではないだろうか。包括主義といっても、他者を蔑視、征服するような排他主義的意識が隠されていては、他者は、心を開かないであろう。だから、多元主義から、内在的超越の道を選択することを通して、包括主義、そして排他主義を目指せばいいのである。天国は、排他主義かも知れないが、それは完成だからである。これが、対話の道なのだと思う。

言葉としては、排他主義、包括主義、多元主義と三つに分かれている。しかし、三つがあるのではなく、一つなのかも知れない。三位一体のように。一つであることを理解できなければ、神の三位一体も理解できないのではないだろうか。

| | コメント (1)

2009年1月 9日 (金)

神学の原点

「仏教は、人間の条件を分析することから出発する。これこそ神学にとっても真の出発点でなければならない。--この生ける神学は、単なる形而上学的思弁から出発するのではなく、もともと生きた実存的現実から出発すべきものだからである」(『東西宗教の出会い』本多正昭編、創言社、35頁)

実存的現実が宗教と神学の出発点である。その通りと思う。

新約聖書には、哲学という言葉が出てくる。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(コロサイ2・8)。哲学を余り評価していない言葉であるが、中世において、ギリシャ哲学と出合ったキリスト教が、ともすれば形而上学的思弁に傾いたことは、中世神学、スコラ神学への批判的意識を招いたとはいえないだろうか。

そのような背景を見る時、ルターは実存的であった。しかし、実存的とは、もともと宗教の出発点なのであり、ルターは中世の偏向を正したという一面があるのではないだろうか。聖書が哲学に、警戒感を持っていることを、考えてみてもいいのではないだろうか。

人間の限界の中における、人間のわざとしての哲学があっても、宗教的・超越的現実を認識し、表現する哲学もある。宗教的現実としての新生・聖化は、やはり認識され、表現され、そして伝えられていかなくてはならないだろう。この役割に哲学という言葉が使われることもある。

| | コメント (0)

2009年1月 7日 (水)

喜びの体験

歎異抄で、親鸞の弟子の唯円が、経文に記されている喜びを感じられないと言った時の、親鸞との問答について、かつて、ここで、取り上げたことがありました。

親鸞への問い、として、少し、物足りなく思いました。それに対して、積極的な解釈をされている人がいました。

「親鸞は自分も同じ困難に出会ったことがあるけれども、それは実際には、救いのしるしなのだと証言しました。逆説的なことですが、親鸞にとって、自分が救われていないことを知れば知るほど、それだけ救いは保証されているのです。即ち私たちの悪の深さは、弥陀の本願によって照らされるのであり、従って私たちの意識の内部における悪の自覚は、弥陀の慈悲の抱擁を自証するものなのです」
(「親鸞教の倫理観」アルフレッド・ブルーム、『東西宗教の出会い』本多正昭編、創言社、145頁)

親鸞に、弟子の問いに対して、それは「救いのしるし」といった証言があったのでしょうか。理屈は分かるのですが。

しかし、親鸞と絶対他力信仰は、今でも、大切な宝と思います。キリスト者には、これはプロテスタント信仰の真髄と思う人がいるかも知れませんが、カトリック信仰も、私は同じと思います。信仰義認は、両者が認めているのですから。

| | コメント (0)

数独の今

数独は、今では、ほとんど、どんな問題でも解けるようになったと思います。解法のコツは、予想数字(確定数字への可能性のあるすべての数字)から、すぐに確定数字を見つけるのではなくて、その間に、予約数字(確定数字への二つの可能性の中の一つの数字)を明確にすることでした。この手順を踏めば、恐らく、どんな問題でも解けると思います。

| | コメント (1)

2009年1月 5日 (月)

対話

歴史家、アーノルド・トインビーは、仏教とキリスト教との対話に関心があり、こう言ったという。

「今から一千年後の歴史家が、この二十世紀について書くようになれば、彼は民主的自由企業と共産主義政治に関する国内論争などには興味がなく、歴史家の心を掴むものは、史上初めてキリスト教と仏教が深く浸透し合ったとき何が起こったかという問題であろう」

これは、第二次世界大戦直後、トインビーが、米国のプリン・モア大学で連続講演を行い、その最後に語った言葉と言われる。(『東西宗教の出会い』本多正昭編、創言社、ⅰ頁)

トインビーの、この「預言」は有名らしく、諸宗教の対話の本には、よく引用されている。

| | コメント (2)

2009年1月 4日 (日)

胸像除幕式

このブログを読まれた方から、10月10日、吉満義彦の生まれ故郷、鹿児島県大島郡徳之島町亀津で、「吉満義志信・義彦氏胸像除幕式」があったことを知らされました。

今年の「偲ぶ会」は、10月30日でしたから、除幕式の報告はあってもいいと思いました。残念ながら、話題に出てきませんでした。私も、今回、初めて知りました。

しかし、吉満義彦の故郷で、その業績を顕彰する動きがあることは、もう何年も前に、その関係者の一人に会ったことがあり、知っていました。吉満の再評価のきっかけの一つは、講談社から出た全集ではないかと思います。

昨年の「偲ぶ会」のあと、読書会の準備のあることを紹介したところ、何人かが興味を示されました。今は提案者の企画を待っているのですが、個人的には、日本におけるキリスト教思想の深化に役立てばと、願っています。

| | コメント (0)

共同図書館

以前、「キリスト新聞」の社説で、「キリスト教図書館」設立の提唱があったと思う。しかし、関心はなかったようだ。

今、カトリック系では、聖三木図書館があり、一般の研究者にも利用が可能になっている。また、宗教図書館では、立正佼成会に佼成図書館があり、こちらも、一般の利用が可能である。

しかし、どちらも、これまでの図書館のスタイルで、会員は借りて読むというだけである。新しい図書館のスタイルを構想してもいいのではないだろうか。

今、個人で所有する図書の利用を考えた時、「共同図書館」があってもいいのではないだろうか。個人の図書のいくらかを、「共同図書館」に提供する。その図書を、他の会員が利用する。図書館の運営は、会員の寄付・会費で行う。要するに、会員が図書館のオーナーになるのである。

オーナーだから、運営への責任とアイデアが求められている。自発性が求められている。単なる利用ではなく、寄贈図書を利用して、それぞれが研究を展開していく。そうすれば、興味を持つ人たちが集まるだろう。議論は深まるのではないだろうか。そこには、新しい、自発的な生涯学習の場ができるかも知れない。

個人で集めた図書は、今ではブックオフなどに売れば、他の人に読まれるという再利用の道が開かれている。しかし、それらは誰の手に渡るか分からないし、自分がもう一度、参照したい時に、手許にないという不便もある。しかし、「共同図書館」に寄贈すれば、いつでも利用できるし、テーマを見つけて、研究会を開いてもいい。

| | コメント (1)

2009年1月 2日 (金)

絶対無

友「年賀状に「絶対無」という言葉があったけれど、どういう意味?」

私「単なる無は、存在との関係では対立概念だけれど、絶対無というのは、それを超えて、存在の「原因」という一面も持つということだろうか。存在が被造物とすれば、無はそのような存在ではないということ。しかし、絶対無は、そのような存在を生み出すもとになるもの。だから、神を意味することもできる。仏教で、色即是空・空即是色、身心脱落・脱落身心という転換の場に絶対無が現れるのではないだろうか。キリスト教では新生・再生の時ですね」

友「なるほどね。仏教はキリスト教のように超越的存在を、言ってみれば、神を前提にした教えではないというけれど、キリスト教と類似の理解もあるようだね」

私「類似の教えは多いと思いますね。そこに、自分の土俵上での解釈が加わり、その妥当性が問われていく時に、宗教間対話は深まるのだと思う。そういう雰囲気が濃厚に、現代にはありますね。以前は、批判的意識が勝っていて、そういう本も読んだことがあるけれど、今は対話が基調になっているような気がしています」

友「しかし、絶対無なんて書くと、西田幾多郎を思い出しますね。西田を学べ、という意味ですか」

私「それもあります。超越的内在ではなくて、内在的超越の道をとりたいですね。宗教者には、どこかに排他主義があると思います。しかし、それをあからさまに、最初に持ち出しては、原理主義者は喜ぶかも知れないけれど、対話は、その瞬間に成り立たなくなってしまうかも知れませんね。少し謙遜になって、包括主義的理解の中で、他宗教を尊重することも大切と思います」

友「それは妥協の勧めですか?」

私「妥協というのは、途中で探求を切り上げることかも知れません。それでは、それでおしまいですね。そうではなくて、解釈の妥当性を、なお問うということですね。それが他者を理解するということだと思います」

友「そうですか。そこまで年賀状に書くわけにはいかないですからね」

| | コメント (0)

東洋の道

東洋の道は否定神学の道であろうと思う。肯定神学は「対象を見る」ことを主眼としている。その時、見る目を問うことはしない。

「我思う、故に我在り」は、人間は理性的動物であること、そして、人間たる所以は理性にあることを再確認したといえるのではないだろうか。しかし、それは、人間が罪により、大きな課題を背負っていることを洞察していない。そこが問題である。

肯定神学的思考は、自己は、そこでは問われていない。だから、哲学の根本命題であった「汝自身を知れ」という課題は、等閑に付される余地がある。もちろん、実存思想は、その限りではないであろうが、一般的に、肯定神学においては、自己を問う契機は、どう担保されるのか、分からない。

無教会の「無」は、実に含蓄に富む言葉である。その経緯を見れば、教派「主義」への批判があると見える。しかし、同時に、東洋の道、否定神学への志向を暗示してもいるようである。

宗教多元主義は、宗教の理想ではなくて、宗教の現実である。それはゴールではなくて、スタートである。このスタートにつくことが大切であれば、その限りで、宗教多元主義を認めることができる。そして、肯定神学の道ではなく、否定神学の道をたどれば、宗教協力にも理解できる余地が多く生まれるであろう。

偶像とは、肯定神学的にとらえられた言葉なのだろう。しかし、否定神学的な理解では、相対者を絶対者にするな、という意味である。相対者は、ある人たちには必要である。絶対への道の一里塚である。その過程への理解があれば、偶像もまた、ある意味で容認できよう。なぜなら、否定神学の道では、どんなものも否定にさらされているからである。だから、否定神学においては、偶像は存在しない。否定が無限に続く道において、初めて、相対者を相対化する作業が可能だからである。無の道に、偶像はいない。

中世神学は、もちろん、否定神学を知っていた。肯定神学の最高峰と見られる、トマス・アクィナスにおいても、「存在の類比」の言葉には、否定神学の真理契機が含まれている。しかし、全体的には、否定神学の道は、主流ではなく傍流ではなかったか。しかし、東洋では、それが逆であろう。

西洋の道は、それなりに成果をおさめてきた。しかし、また課題も残した。その課題は、我々の眼前にある。その課題に対して、西洋と同じ仕方で、解決しようとしても、挫折するだけではないだろうか。そこに、神学教育への反省もあろう。

西田幾多郎や内村鑑三は、東洋の道において、宗教思想の発展・展開、その使命を洞察した人なのだと思う。

| | コメント (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »