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2009年1月 7日 (水)

喜びの体験

歎異抄で、親鸞の弟子の唯円が、経文に記されている喜びを感じられないと言った時の、親鸞との問答について、かつて、ここで、取り上げたことがありました。

親鸞への問い、として、少し、物足りなく思いました。それに対して、積極的な解釈をされている人がいました。

「親鸞は自分も同じ困難に出会ったことがあるけれども、それは実際には、救いのしるしなのだと証言しました。逆説的なことですが、親鸞にとって、自分が救われていないことを知れば知るほど、それだけ救いは保証されているのです。即ち私たちの悪の深さは、弥陀の本願によって照らされるのであり、従って私たちの意識の内部における悪の自覚は、弥陀の慈悲の抱擁を自証するものなのです」
(「親鸞教の倫理観」アルフレッド・ブルーム、『東西宗教の出会い』本多正昭編、創言社、145頁)

親鸞に、弟子の問いに対して、それは「救いのしるし」といった証言があったのでしょうか。理屈は分かるのですが。

しかし、親鸞と絶対他力信仰は、今でも、大切な宝と思います。キリスト者には、これはプロテスタント信仰の真髄と思う人がいるかも知れませんが、カトリック信仰も、私は同じと思います。信仰義認は、両者が認めているのですから。

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