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2009年1月11日 (日)

多元主義か?

「「玉ねぎがキリスト教の中だけでなく、仏教にもヒンドゥー教のなかにもおられる」という大津の祈りの対象こそ、つねにキリストに向けられているとは言いながら、このスタンスはいわゆる「多元主義」的なキリスト教理解であり、カトリックの公式な見解「包括主義」の枠を踏み越えている。もちろんこのスタンスこそ『沈黙』における遠藤のキリスト教理解の延長線上にあるキリスト論であり、文学的には面白いがカトリックの司祭の言葉としては問題を孕むところである」(「『深い河』と母の顔」兼子盾夫、『三田文学』No.90、276頁)

かつて、『深い河』は多元主義ではなく、包括主義なのだ、といった解釈があることを、紹介したと思うが、ここでは、包括主義の枠を超えて、多元主義になっていると、解釈されている。もちろん、神父としては不適格の烙印を押された大津の立場が著者の立場というのではないだろうけれど。著者は「包括主義」、との解釈は、別の個所を引用していたと思う。「玉ねぎ」とは、聖霊を指すのだろうか。

日本にいて、ヒンドゥー教徒やイスラームの人たちには、余り出あうことはないかも知れないが、仏教の人は多い。そんな中で、大津のスタンスには、理解できるものがあると思う。仏教徒で、キリスト教徒よりも人間的に立派と思える人は、いくらでもいる。

さて、多元主義というのは、現実的な出発点と思う。他者を尊重する姿勢は、多元主義の中でのみ保証されるのではないだろうか。包括主義といっても、他者を蔑視、征服するような排他主義的意識が隠されていては、他者は、心を開かないであろう。だから、多元主義から、内在的超越の道を選択することを通して、包括主義、そして排他主義を目指せばいいのである。天国は、排他主義かも知れないが、それは完成だからである。これが、対話の道なのだと思う。

言葉としては、排他主義、包括主義、多元主義と三つに分かれている。しかし、三つがあるのではなく、一つなのかも知れない。三位一体のように。一つであることを理解できなければ、神の三位一体も理解できないのではないだろうか。

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コメント

『深い河』の大津のモデルは井上洋治神父なのだと、著者は言っているようだ。しかし、遠藤の問いも、井上神父の問いも、無視することは許されないと思う。この問いの中で思索していく中にのみ、日本のカトリック教会の明日はあるのだ、と私は思う。しかし、今日の日本の教会にも問いを感じる。教会の一信徒が、この国の総理大臣になっても、政治的には疎遠な場所にい続けるように見えるのも、どう理解したらいいのだろうか。もちろん、別の角度からは、むしろ政治的に見えるかも知れないけれど。

投稿: | 2009年1月14日 (水) 21時16分

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