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2009年1月13日 (火)

「この世の王」

「「召し出し」という言葉がある。カトリック教会内で用いられる一種の隠語で、この世の王たるキリストがその人を「召し出し」、牧者(司祭)に選ぶという信仰を表す。越知保夫は、わがキリストは自らを教会から連れ出し、民衆の前に出よと「召し出し」た、そう信じていたに違いない」
(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、43-44頁)

「イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。…」(ヨハネのよる福音書18・36)。だから、「この世の王たるキリスト」の意味が、少し分かりません。

もちろん、復活のキリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイによる福音書28・18)と言われているので、その限りでは「この世の王」でもあるかも知れません。

また、ローマ帝国の中でキリスト教が国教になった時も、そんな観念が強められたかも知れません。

アウグスチヌスの活躍は国教下でしたので、彼の考えには、その現実の影響があったかも知れません。しかし、また、国教としてのキリスト教の限界を知っていたのかも知れません。そんな思いが「神の国」にあるのでしょうか。近世、そしてプロテスタンティズムの予見も、そこにあるのかも知れません。

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