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2009年1月12日 (月)

信と知

「この思想家が、ある日、雑誌社に請われて遠藤周作と対談した。そこで遠藤周作は、キリストを信じているか否か、それは自分が死ぬまでわからない、といったというのである。森有正はその遠藤周作の言葉に深く動かされたという。さらに、確かに遠藤周作の言葉どおり、信仰とは生きて証しされるべきものであり、決して語られ得るものではないのだろうと森有正はいっていた」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、38頁)

「この思想家」とは森有正です。

以前、ここで、歎異抄の中で、信仰の結果に対する唯円の問いに対し親鸞が答えた回答に、少し疑問を感じていると書いたことがありましたが、森有正との対談での遠藤周作の答えにも、それに通じるものがあるように思います。

しかし、遠藤は、ここで何を言いたかったのか、また、森は、どうして深く動かされたのか、よく分かりません。

信仰の結果としての新生と聖化は、生きている間に、「分かる」ものではないかと、私は思います。

「「人生の大事を決定するのは、賭けと祈りの熱情である」中村光夫はあるところでいっている」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、57頁)ようですが、この「賭け」に対応するのが「新生」であり、祈りに対応するのが「聖化」ではないか、とも思いました。

要するに、人間の一生は、新生と聖化の道です。ある意味で、それに尽きるかも知れません。救世軍では、「救いと潔め」といっています。

あるいは、遠藤周作は別のことを言いたかったのかも知れないし、森は、それに感動したのかも知れません。聖化の確実性への疑問の表明なのかも知れません。しかし、聖化は栄化の確実性を持っていないとしても、それを目指すものであり、知られるものと思います。ですから、知の対象でもあります。このあたりは、ジョン・ウェスレーは、はっきり言っていると思います。

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