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2009年1月13日 (火)

告白と生きること

「「告白」のことばは、いつの日にか、生きることによってそれを証しなくてはならないときが必ずやって来る。そうすることが、告白を真実の意味で「告白」たらしめる。そのとき、その人間が生きた道は、その人以上の何かを告げ知らせるのである」(「越知保夫とその時代」若松英輔、『三田文学』No.89、52頁)

いい言葉と思いました。

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10・10)の言葉を思い出しました。

「告白」と「生きる」こととの関係が、「心で信じる」ことと、「口で言い表す」ことの関係に似ていると思いました。

あるいは、「口で言い表す」が「告白」であれば、「告白」の前に、「心で信じる」ことが先行するのでしょう。「心で信じる」という、その人だけのささやかな変化が、やがて告白になり、行為になり、その人の予想もできないくらいの広がりへと、何かを伝えていくのかも知れません。

それはまた、新生と聖化との関係でもあるかも知れません。

新生は聖化のスタートであり、真の新生は、必ず、その人に聖化の道を歩ませるものだと思います。

この点は、絶対他力の浄土真宗や、プロテスタントの「信仰のみ」の強調の周辺に、悪い行為を生む可能性があるとの疑問が出ていたと思います。しかし、もとルター派の故北森嘉蔵氏は、信仰が真実であれば、必ず良い行為が伴うと考えていたと思います。

真の義認は、必ず良い行為を生み出すものだと思います。プロテスタントとカトリックでは、これまで、この両者の関係では重点の置き方が違っていたと思いますが、今では、ルター派とカトリックとの間では、信仰義認での合意ができています。

そして、聖化の道を歩む者においてのみ、新生のメッセージが真実なものとなる。そう読むことも出来ます。その時、その人の生きた道において、神が人々に何かを語っているともいえる。もちろん、それは「新生と聖化」への招きです。それが、「その人間が生きた道は、その人以上の何かを告げ知らせるのである」の意味であろうかと思いました。

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