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2009年1月 2日 (金)

東洋の道

東洋の道は否定神学の道であろうと思う。肯定神学は「対象を見る」ことを主眼としている。その時、見る目を問うことはしない。

「我思う、故に我在り」は、人間は理性的動物であること、そして、人間たる所以は理性にあることを再確認したといえるのではないだろうか。しかし、それは、人間が罪により、大きな課題を背負っていることを洞察していない。そこが問題である。

肯定神学的思考は、自己は、そこでは問われていない。だから、哲学の根本命題であった「汝自身を知れ」という課題は、等閑に付される余地がある。もちろん、実存思想は、その限りではないであろうが、一般的に、肯定神学においては、自己を問う契機は、どう担保されるのか、分からない。

無教会の「無」は、実に含蓄に富む言葉である。その経緯を見れば、教派「主義」への批判があると見える。しかし、同時に、東洋の道、否定神学への志向を暗示してもいるようである。

宗教多元主義は、宗教の理想ではなくて、宗教の現実である。それはゴールではなくて、スタートである。このスタートにつくことが大切であれば、その限りで、宗教多元主義を認めることができる。そして、肯定神学の道ではなく、否定神学の道をたどれば、宗教協力にも理解できる余地が多く生まれるであろう。

偶像とは、肯定神学的にとらえられた言葉なのだろう。しかし、否定神学的な理解では、相対者を絶対者にするな、という意味である。相対者は、ある人たちには必要である。絶対への道の一里塚である。その過程への理解があれば、偶像もまた、ある意味で容認できよう。なぜなら、否定神学の道では、どんなものも否定にさらされているからである。だから、否定神学においては、偶像は存在しない。否定が無限に続く道において、初めて、相対者を相対化する作業が可能だからである。無の道に、偶像はいない。

中世神学は、もちろん、否定神学を知っていた。肯定神学の最高峰と見られる、トマス・アクィナスにおいても、「存在の類比」の言葉には、否定神学の真理契機が含まれている。しかし、全体的には、否定神学の道は、主流ではなく傍流ではなかったか。しかし、東洋では、それが逆であろう。

西洋の道は、それなりに成果をおさめてきた。しかし、また課題も残した。その課題は、我々の眼前にある。その課題に対して、西洋と同じ仕方で、解決しようとしても、挫折するだけではないだろうか。そこに、神学教育への反省もあろう。

西田幾多郎や内村鑑三は、東洋の道において、宗教思想の発展・展開、その使命を洞察した人なのだと思う。

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