« 行き詰まり | トップページ | 派遣切り »

2009年2月 8日 (日)

自灯明・法灯明

自灯明・法灯明とは、涅槃経にあるもので、釈迦入滅の時の最後の教えだという。

「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること」だという。

最近、何か気にかかる言葉である。

この二つには、あるいは矛盾があるのではないだろうか。法は客観、自は主観であれば、この二つは違う。しかし、法一元でもなく、自一元でもない、そこに深い意味があるような気がする。

この二つの絶対矛盾的自己同一の一を見た時、そこに真理があるのではないだろうか。

客観は大切である。しかし、主観も大切である。

真理は客観でなくてはならない。しかし、自らに実現する真理は、その限りでは主観的でもある。

救いにおいては、真理は外にある客観であるとすれば、聖化においては、真理は内にある主観的なものかも知れない。

その時の主観は、その人に固有な真理という意味である。その真理を見いだして、その反復が大切かも知れない。

洗礼を受けたキリスト者がすぐに教会を離れるといわれている。しかし、新生したキリスト者は、聖化の道を歩む以外に道がない。聖化の道を歩むとは、どういうことか、それがもっと解明されなければならない。

|

« 行き詰まり | トップページ | 派遣切り »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 行き詰まり | トップページ | 派遣切り »