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2009年2月16日 (月)

志の探究

かつて、キリスト教の新聞の編集をしていたことがあった。この新聞は、もう一つの福音派系の新聞よりも歴史が古く、私が自宅の近くにあった教会に出入りするようになった昭和36年のころには全国に知られていた。ノーベル賞の候補者にも名前のあがった著名な創立者が逝去したのは、その前年であったから、新聞には大いなる志がみなぎっていたと思う。創立者に協力した新聞経営の中心人物も著名な人であり、大いなる志では、創立者に負けないくらいであった。

私が教会に行くと、老婦人が、驚きの表情をして、この新聞に書かれていた原始福音の記事(癒やし関係の内容があったのかも知れない)を皆に伝えていた。それが、この新聞の存在を知った最初であった。

やがて、私は、この新聞の編集にたずさわるようになった。大学紛争が終わり、静かなキャンパスが戻ってきたが、キリスト教主義大学や神学校にも、そして教会の中にも対立感情が強く残り、心の修復はこれからという時であった。そんな現場の中で、どんな編集をしたらいいのか、私は迷った。

先輩記者が言った。「戦後、間もなく、教会がばらばらになり、互いに情報交換する機会がなかった。そんな時、教会が相互に知り合うため、新聞を出すという思いがあったようだ」

また、こうも言った。「新聞を見て、教界の現在の動きが分かればいい。それが新聞の使命だと思う」

私が入社した時、教会はいろいろな対立の中に置かれていて、どういうふうに取材したらいいのか、迷った。対立の一方に立てば、他方との関係は悪くなるし、その逆も言える。しかし、記者の使命は、両方を取材しなくてはならない。そういう立場に、志はあるのだろうか。そして、志がなくて、自由業ともいえるような記者稼業は成り立つのだろうか。

私は、取材という名目の中で、対立する両者の間を歩いていたが、今、教界を見て、新しく、志の必要を感じている。

「クリスチャントゥデイ」というインターネットでのキリスト教新聞があり、誰でも、自宅のパソコンでその記事を読むことが出来る。それは週刊ではなくて、日刊であり、内容も豊富である。

今、その会社の背景にあるものが何か、ということで、裁判があり、そのため寄稿者には敬遠する人もいるが、この記事を読んでいて、背景にあると思われているものとの関係を感じる人がいるだろうか。私は、「キリスト教インターネット新聞」としてはよく出来ていると感心している。そして、一次情報が、こういう形で、ふんだんに提供されている時、従来の週刊の紙によるキリスト教の新聞は影響を受けないだろうか、と思う。

「クリスチャントゥデイ」の存在は、裁判という形では知られてはいるが、「インターネット新聞」という形での取り上げ方はされていないように思う。

かつて、教界の有志は、ニューメディアという言葉に反応した。キャプテンシステムという試みにも、関心がもたれた。そういう意識があれば、当然、インターネット新聞は大いに取り上げられなければならないのではないだろうか。そういう意識がないとしたら、どのように明日の日本の教界を構想していけるのだろうか。

再び、出版の原点である「志」の必要を思う。志をたずね、志を明確にしていく、その中で、現在なすべきことが、新しく見えてくるのではないだろうか。一次情報を、どう解釈したらいいのだろうか。その解釈こそ、問われなければならない時なのではないだろうか。

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