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2009年3月31日 (火)

シュライエルマッハー

佐藤優氏の公開「キリスト教神学概論」を読んでいて、シュライエルマッハーの意義というものが、新たに理解されたように思った。天動説から地動説への転換と、中世や古プロテスタンティズムの神理解と、シュライエルマッハーの神理解とを対比されて提示されれば、シュライエルマッハーの神理解に立つべきと思われてしまう。

恥ずかしい話ではあるが、このようなシュライエルマッハーの意義の説明に触れたのは、今回が初めてである。あるいは、これは、もう神学の領域では常識になっているのかも知れない。

転換は、このようである。神は天にいるのではなくて、人間の心の中にいる。天には神はいない。その天というのは、三次元における上を意味していたが、そこに神はいない。

しかし、もし、そのような天に神がいるとすれば、神は被造物になってしまうのではないか。宇宙の中にいる神は被造物ではないのか。だから、天は空間的な天ではない。中世や古プロテスタンティズムの神理解は、神の場所として、そういう天を考えていたのだろうか。少なくとも、ルターやカルバンらは、そうは考えていなかったのではないだろうか。そんな疑問を感じてしまう。

それに、シュライエルマッハーの立場に共感を示していて、同時に、あのバルトとブルンナーの論争の中では、バルトの立場に立つと、佐藤氏は言われている。

バルトは、もともと、シュライエルマッハー批判で知られる人ではないのか。彼以降の、キリスト教思潮に対して、強力な批判をしていた人ではなかったろうか。だから、バルトは、古プロテスタンティズムへの回帰を訴えた人ではないのだろうか。

こういうバルトにしても、なお、根本主義的(あるいは今では原理主義的と言うべきかも知れないが)なキリスト教神学者たちには批判されていた。

バルトの立場に立ちつつ、なお、シュライエルマッハーの神理解、その意義を評価している佐藤氏は、その間のつながりをどう考えておられるのか、私には、何か巨大な謎のように迫ってきた。

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キリシタン禁教

「私は、豊臣秀吉がカトリシズムに対し警戒感を持ってキリスト教を禁止し、その後、徳川家光が徹底的なキリシタン弾圧政策に出たことについては、それなりの正当な根拠があると考えます」と、佐藤優氏は、ウェブ上の「キリスト教概論」の第4回「神の場所(4)ー日本のキリスト教」で言っている。

URL:http://blog.heibonsha.co.jp/blog/satomasaru/2008/02/1.html

私も、そう思う。最近、キリシタン時代の殉教者の列福があったが、禁教に至った経緯というものに、教会は目を塞ぐべきではない。列福は、対話の深化を志向すべきと、私は思う。

佐藤氏は、その禁教の理由について、こう言われている。

「カトリシズムの本質は普遍主義です。カトリックという言葉自体に普遍的という意味があります。当時のカトリック教会はスペイン、ポルトガルという巨大帝国と結びついていました。宗教が政治と結びつくと強力なイデオロギーとして作用します。このようなキリスト教は、政治的にとても危険なのです。そのようなイデオロギー化したキリスト教に対して、日本国家が安全保障上の観点、すなわち植民地にされないようにするために国を閉ざしたことは当然と思います」

佐藤氏は、続いて、こう記す。

「誤解なきように付言しておきますが、現代のカトリシズムには、16世紀のような危険はありません。今もカトリシズムは普遍主義であるということ自体は変化していません。しかし、現代のカトリック教会は、バチカン市国を除けば特定の国家と一体化していません。バチカン市国には世界支配の野望はありません。従って、プロテスタント教徒の一部に残っている反カトリック感情には根拠がありません」

もちろん、「従って、プロテスタント教徒の一部に残っている反カトリック感情には根拠がありません」という部分は、このコンテキストにおいては、と言う条件づきなのだろう。別のコンテキストにおいては、あるいは根拠があるのかも知れない。

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2009年3月30日 (月)

クリスチャン芸能人

クリスチャン芸能人には、どんな人がいるのだろうか。えっ、あの人も、といった人もいるかも知れない。

そんなサイトがありました。

URL:http://yteradae.blog109.fc2.com/blog-date-200711.html

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2009年3月29日 (日)

短歌の効能

短歌にて 啖呵切らなば 如何ならん
 京の言葉で 対立は融け

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新聞

情報の 氾濫の中 ある意味は
 答え出さずば 尻つぼみかも

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日本神国論

森総理 神国に触れ 批判され
 親房の説 言ったら如何に

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原理主義

他者に向く その目己に 向けるなら
 超越続く 共感もまた

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佐藤優という人

風貌に 熊楠思う 人もあり
 外だけでなく 内も然りと

信仰と 外交結ぶ 説読みて
 首相の信は いずくにかある

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宇宙の完成

科学者に 宇宙完成 無意味だが
 再臨を待つ 努力のうちに

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真宗とバルト

真宗に 共感覚ゆ 仏教を
 いかに思うか バルト先生

バルトは、それでも排他主義でありうるか。

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法華経

観世音 法華経にあり その意味は
 総合目指す 最後の教え

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2009年3月27日 (金)

自己実現

人生の目的は自己実現である。これが唯一の目的である。そして、これは必ず達成できるゴールである。しかし、そのためには道の選択が不可欠である。

人間の構成を質料と形相に分けて考えてみる。質料は粘土のようなものである。そして形相は、その粘土で作られる形のようなものである。

人生は、その形を作っていく過程であろう。しかし、そのためには、粘土の質が問われる。水分を含んだ粘土でなければ、形は容易に崩れてしまう。そこに、原罪の問題が横たわっている。

原罪の問題の解決というものは、この粘土に湿り気を与えるようなものだ。これによって、神との交わりが回復する。しかし、それで人生の目的が達成されたわけではない。もちろん、これで達成されたという思いが生まれることを否定はしない。だから、「救われた」という言葉が出てくるのであろう。

粘土は、それによって、ある形を作らなければならない。その形の実現が自己実現である。その形が何であるか、それは、日々、尋ねていかなくてはならないかも知れない。しかし、その形の実現は、宇宙の意志であれば、必ず成るのである。

その時、既に、自己実現している先人たちとの関係に入ることが肝要である。一人の自己実現は、それは、その人一人だけの問題ではない。自己実現は、先に自己実現した人たちとの関係、縁の働きによって成るものであり、それはまた同じように、他者の自己実現を生み出す力を持っているからである。

こうして、宇宙は完成されていく。自分の自己実現は宇宙の完成と無関係ではない。であれば、自分における最高の善は、自己実現であると言えるのではないかと思う。

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佐藤優という人

最近、書店で、角川文庫『国家と人生』(佐藤優、竹村健一)を買い、一気に読んでしまった。佐藤氏は、外務省の情報分析官であったが、現在は作家・起訴休職外務事務官という肩書きである。お会いしたことはないが、一度、四谷駅で、その姿を見かけたことがある。同志社大学神学部で学んだという経歴があり、何か気になっていた。本を読んで、こういう博識な人物が現実にいるということに、正直驚きを覚えた。本人はクリスチャンという。月刊誌『福音と世界』にもプロテスタント神学者を取り上げて連載している。キリスト教界にも影響力を及ぼしつつある。これからが楽しみである。

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バルトの立場

カール・バルトは、果たして、どういう立場だったのだろうか。絶対主義という人もいるが、よく引用される言葉で言えば、排他主義なのだろう。包括主義でも、いわんや多元主義ではない。排他主義は、根本主義、原理主義と重なるものがあると思う。

キリスト教の中では、最初は原理主義とは言わないで、根本主義と言われていた。ファンダメンタリズムの訳語である。しかし、イスラム原理主義という言葉が使われて、そのテロリズムが原理主義に結ばれて印象に残る時、キリスト教原理主義としては、少し迷惑なのではないかと思う。メイチェンにしてもウォーフィールドにしても学者であったし、大学を設立したボブ・ジョーンズは、少し扇動者的イメージがあるかも知れないが、いずれにしても、テロとは全く無関係であるからだ。そして、バルトは、そういう陣営の中では、批判されていたと思う。

彼は新正統主義と言われて、原理主義者らからは、批判されてきたのである。

原理主義者とは、どういう人たちかといえば、リベラルな人たちによれば、対話が困難な人たちである。しかし、それも、一つの特徴で、全体の特徴ではないかも知れない。学者タイプの原理主義者が対話困難では本が書けないであろう。

また、膨大な著書を残しているバルトが対話が困難な人であるとは思われない。なぜなら、膨大な本は、多く人たちとの対話を抜きにしては、成り立たないであろうから。

絶対主義とか言われるバルトの立場は何であろうか。ブルンナー論争の経緯を見ていれば、やはり、彼は自分の置かれた環境に対応していたように思われるのである。バルトはバルト主義者ではないと言ったと言われるが、そんなところに柔軟に状況に対応できた大神学者の一面を見たような気がする。

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2009年3月25日 (水)

日ユ同祖論

日ユ同祖論について書かれたブログがありました。一応、今までに紹介されてきた内容かと思いますが、どう受け止めるか、それは一人ひとりの課題かも知れません。

http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/57247981.html

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なぞなぞ

問い「数独とかけて何と解く?」
答え「内村鑑三と解く」
問い「こころは?」

コメント参照

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2009年3月24日 (火)

死刑願望

最近の世相を見ていると、犯罪の動機に中に、「死刑になりたい」という言葉がある。死刑が怖いという感情の故に、死刑が犯罪抑止のために設定されているとしたら、この死刑願望においては、その死刑の設定理由がなくなっている。
一体、犯罪者の中にある死刑願望とは何か。それは、今日的課題として、精神科医らが取り組まなくてはならないのではないだろうか。

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2009年3月23日 (月)

ラーナー批判

カール・ラーナーというカトリックの神学者がいた。第二バチカン公会議への影響という点で、日本でもよく知られている。邦訳の本もたやすく入手できる。しかし、批判する人もいる。その人々は、第二バチカン公会議も批判している。例えば、次のような記事がある。

URL:http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila166.html

ここで言われている主張に、私は同意してはいない。誤解があるのではないかと思う。

しかし、こういう人たちが、カトリック教会の中にいて、神学校の校長もしているということは、よく考えてみる必要がありそうである。

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ネガのキリシタン史

 村岡典嗣という人物については、文芸評論家で内村鑑三について精力的に書いている新保祐司氏の書物がある。

 村岡典嗣は、キリシタン史を百倍も面白くしてくれる人物である。その理由(仮説)はこうだ。

 よく知られているキリシタン史は「ポジのキリシタン史」であり、これはザビエルが日本を離れることで象徴されるように、やがて殉教と挫折で終わるのである。

いや、挫折で終わったとは言えないかも知れない。大浦天主堂での隠れキリシタンの発見、殉教者たちの列聖、列福と続いているのを見れば、まだキリシタン史は終わっていないのかも知れない。しかし、それを見るには信仰の目が必要だろう。

ところで、キリシタン史には「ネガのキリシタン史」というものがある。これはマテオ・リッチの『天主実義』を通して密かに日本に入ってきたのである。

 この経路は、平田篤胤を通して、日本思想史のど真ん中に入り込んでいる。この辺の研究は幕末・明治維新そして近代日本の精神史研究の問題だが、そこに「ネガのキリシタン史」解明を目指して、業績を残した研究者が村岡典嗣であり、彼は、その入口を示している。

  平田篤胤の国学と天主教教義との接点については、山口鹿三氏の「声」誌への寄稿によれば、マテオ・リッチの「天主実義」というが、海老沢有道氏は、伊東多三郎氏の研究成果として、在華イエズス会士、アレニの著作「三山論学紀」と篤胤の「本教外篇」とを比較対照して(『南蛮学統の研究 増補版』)、そこに「改作」を指摘している。そして、篤胤は「本教外篇」において、「『天主』を国常立尊などに当て、復古神道における創造主宰神観を形成した」(「日本キリスト教大事典」)と言っている。

 一方、国学とプロテスタントとの関係については、佐賀藩和学寮の教官南里有隣が、在清プロテスタント宣教師ウィリアム・マーチンの教理書「天道溯原」に基づいて著した「神理十要」(安政6年、1859年)で、篤胤と同じ見解に到達していると、村岡典嗣氏は「南里有隣の神道思想」で紹介している。

 念のため、「ネガのキリシタン史」という言葉は、私以外の誰も使っていない。

なお、「南里有隣『神理十要』におけるキリスト教の影響ー『天道溯源』との関連ー」(前田勉)という論文がインターネットで紹介されています。

http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/135/1/kenjin578392.pdf

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母なるもの

日本人のキリスト教信仰に足りないものとして「母なるもの」を指摘したのは遠藤周作氏であった。そのきっかけに内村鑑三の武士道が意識されていたという。井上洋治神父も、その着想を受け継いでいる。

それはカトリック信仰の中で、対プロテスタント信仰との比較から生まれたきたものであろうか。そうかも知れない。

ところで、カトリック信仰のマリア「信心」には、プロテスタントからの批判があり、今でも、そんな批判が繰り返されている。

しかし、マリアは神ではない、女神でもない。カトリック信仰の神は三位一体であり、その中にマリアはいない。しかし、マリアに祈る。それを取り次ぎとして説明する。だから、マリアに祈るのは神に祈るようなものではない。聖人たちも、神ではない。しかし、祈るという行為のために、その対象は神々とうつるのであろうか。

マリアからイエスに、イエスからキリストに、そして父なる神に。そういうつながりはあるかも知れない。だから、祈る行為の対象を横一列に「神」とみなす必要はないのではないだろうか。そうではなくて、そこに縦関係を考えてもいいのではないだろうか。

ところで、女性的なものの重要性を指摘していた人にゲーテがいた。母なるものに、何か、自分のすべてを告白できる気安さを感じることができる。母は、いつも自分の味方なのだという思いがある。そんな人も多いのではないだろうか。それは、父と対比してのことである。だから、母に告白して、父に執り成しをお願いする。そんな構図が家族関係の中にある。それが信仰にも反映しているのではないだろうか。

母なるものにおいて、回心が起きる。では、父なるものにおいては何が期待されるのであろうか。それは、個性化かも知れない。自己実現とも言えるかも知れない。しかし、自己実現よりも個性化の方が具体的のように思える。

その過程は、義認から聖化への過程でもあろう。

カトリックには、天使祝詞という祈りがある。マリアへの祈りである。もちろん、プロテスタントにはない。天使祝詞を祈れる幸いをカトリック信徒は感じてもいいかも知れない。たとえ、傍には誤解されようとも。

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回心は瞬間的か

回心は瞬間的という人と、いや、そうではない、という人がいます。カナダやアメリカの伝道者(たとえば、オズワルド・J・スミス、J・R・ライス、ビリー・グラハム)などは、瞬間的という人が多いと思いますが、カトリックでは、そういう人は少ないかも知れません。内村鑑三は、瞬間的ではない、と言っていました。

これは、どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではないかも知れません。なぜなら、回心という言葉で何を意味しているのか、そこが違っていれば、両方とも正しいという選択があるからです。

瞬間的という人は、新生を指して、そう言っていますが、瞬間的ではないという人は、聖化を指して、そう言っているのだと思います。

新生は洗礼に、聖化は聖餐(聖体拝領)に結びつくと考えれば、洗礼は一回限りで、聖餐(聖体拝領)は生涯、反復されます。比較すれば、洗礼は瞬間的で、聖餐(聖体拝領)は、そうではない、長い時間が必要ということになります。

回心という言葉で新生を指しているのか、それとも聖化を指しているのか、そこが違えば、回心は瞬間的かそうでないかの問いも、違った回答が出てくると思います。

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2009年3月22日 (日)

吉満・資料

『季刊日本思想史』72号(2008年1月)は「近代日本と宗教学:学知をめぐるナラトロジー」を「特集」、その中に、吉満義彦に関する論文があります。

鶴岡賀雄「吉満義彦の「近代日本カトリシズム」」です。

新宿東口に新しくできた書店に行けば、入手できるかも知れません。

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無の道

無の道は 聴くに通じて 対話待つ
 神と人との 対話盛んに

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2009年3月20日 (金)

投影

神という 人の望みの 投影と
 批判はあれど 否定もできず

投影を すべてと思う 錯覚に
 争い絶えず 知恵も遠のく

投影を 許しつつ行く 否定道
 無限の道は 知恵深き道
 
 
投影というのは、一面、偶像崇拝です。それは、投影が固定化されて、プロセス化を拒否した場合です。十戒の禁止は、この固定化であると、私は思います。

厳密に、投影をすべて拒否したとしたら、人は地上では生きていけなくなるのではないでしょうか。特に、諸宗教の強い影響下にある、この国のキリスト教徒は、ここでどう考えるかかが、問われると思います。

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否定神学

無の道は 否定神学 この道を
 日々に進めと その果てにまで

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超越主義

主義多し 排他、包括 多元主義
 超越主義も あるかも知れぬ

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2009年3月18日 (水)

無宗教

『無宗教こそ日本人の宗教である』(島田裕巳著、角川書店、2009年)を面白く読んだ。無教会への言及があるかと思ったが、なかった。また、故岩佐凱実(いわさ・よしざね)氏のエピソードの紹介があるかと思ったが、これもなかった。しかし、岩佐氏のエピソードは、この本の趣旨にぴったりである。ただ、この本には、同じような話が紹介されていた。著者が、山折哲学雄氏から聞いた話だという。

山折氏の友人がカナダに旅行した時のこと、入国に際して、係官から宗教を聞かれて、「無宗教」と答えたところ、係官が入管を拒否したという。そこで、無宗教とは、宗教がないという意味ではなくて、無という宗教がに日本にはあるのだと答えて、それで係官を納得させたというのである。(21頁)

さて、岩佐凱実氏は、元富士銀行頭取で、平成13(2001)年10月14日、95歳の高齢で逝去された。彼は、日露戦争の終わった翌年に東京に生まれたが、当時は、戦争の勝利に世の中がわき立っていたので、凱旋の凱の一字を取って、凱実と名づけられたのだという。東大を出て、1928(昭和3)年、安田銀行(のちの富士銀行)に入行され、のちに、大金融人、国際人になった。富士銀行頭取、同会長、同相談役、また全国銀行協会会長、経済団体連合会副会長、経団連評議員会議長、経済同友会代表幹事を歴任した。日米財界人会議は、岩佐氏の提唱を核にして始まったものだ。1986(昭和61)年には、勲一等旭日大綬章を受賞している。

昭和12年、岩佐氏は、安田銀行の一行員だったが、日本電工(昭和電工の前身)の再建のために同社に送り込まれた。この日本電工は昭和14年に、昭和肥料(経営者は鈴木忠治氏)と合併して昭和電工になるのだが、鈴本忠治氏の令息の一人が鈴木治雄氏。鈴木治雄氏は、無教会の関根正雄氏の影響でキリスト教に関心を持たれ、のちカトリック教会に籍を置かれた。

さて、岩佐氏は、昭和25年9月に、単身、アメリカに渡ったが、その時、入国管理官から、宗教を問われたという。

「宗教は何か、というので、『私は宗教はない』と答えると変な顔をした。そこで、『私はキリスト教徒でも仏教徒でもない。神道でもない。いわんやイスラム教徒でもない。しかし私は宇宙の神を信じている』といったら、管理官は、『わかった。わかった。もうよろしい』と解放してくれた」(『回想八十年-グローバリストの眼』岩佐凱実著、財団法人・日本法制学会刊、95-96頁)。

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2009年3月17日 (火)

西方浄土

西方に浄土ありと
人のいう

仏教伝えし中国と
インドは共に西方に

その彼方にはローマそしてエルサレム
キリスト教発祥・発展の地も西方に

あるいはシルクロードの中継地点
そのどこかにか西方浄土は

西方は太陽沈む所なり
色即是空の極致なり

その境地目指すなか
空即是色の新境地

そを約すのは
般若の教え

空即是色は浄土の境地
その境地を求めてか

夕陽を眺めつつ
観想念仏に没頭する信徒たちよ

西方に浄土ありと
人はいう

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落ち葉

ひらひらと舞い落ちる落ち葉二つ
これあり
   
既に命の木より切り離されしも
それに気づかず
   
なお昔日の勢を惜しみ
その勢の余韻を残しつつ
   
重力に抗しがたく
一片の物として落ちる姿に
   
潔の美学を知る国民の同情
これあり
   
かつてありし命の供給を断たれし落ち葉は
無残、足下に踏みつけられ
   
変色し、かつ醜き姿を呈しつつ
万物流転の理を現すに至れり
   
黄金の城にて過ごしたる日々の輝きは
どれほど大きくとも
   
舞い落ちる落ち葉の美に
勝ることはない
   
潔の美を知る国民は
その最期に一片のあわれを覚ゆ
   
嗚呼、大坂城、燃ゆ
淀母子、散る

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法華経

日蓮の言葉として知られるものに、「真言亡国、……」といったものがある。これなど、排他主義の典型のように思える。もし、原理主義的に、この言葉を解釈したら、対話などなりたたないであろう。真言は空海、律は、少し分からないが、禅は道元、念仏は親鸞と、それらの偉大な日本の仏教者を批判の対象にするとしたら、なかなか共感が得られないのではないかと、思われる。しかし、法華経には、方便という考え方もある。これは、排他主義ではなくて、包括主義的考え方とも言えると思う。そして、この考え方ならば、対話は可能であろう。

日蓮というと、上の言葉から、排他主義的な仏教者にように思われるかも知れないが、彼が信奉した法華経の中にある「方便」の考え方を採用すれば、排他主義的姿勢以外の対外的アプローチも可能なのではないかと思われる。

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神への抗議

私は神に抗議した。「あなたの創造は間違っている。失敗だ。人間の不幸がその証拠だ」
神は言った。「あなたがその不幸に対して何事かをせよ」

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2009年3月16日 (月)

怠け者

怠け者 無為徒食の徒 されどなお
 瞑想ならば それもよしかと

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2009年3月15日 (日)

練獄

練獄は 死後の世界か いや待てよ
 未完はこの世 類似は何故か

もし、練獄に輪廻がからんでいるとしたら、……。

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ないも悪 あり過ぎるのも ほどほどが
 善かも知れぬ 難しい道
 

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2009年3月13日 (金)

新しき中世

仏基間 対話なしつつ 世紀を拓く
 自覚の深化 聖霊により
 
その対話の中で、神秘という言葉が使われる場合が多いが、キリスト者の場合には、聖霊体験を指すのではないだろうか。

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2009年3月11日 (水)

千の風

千の風 死後の裁きは ないのかな
 みんな天国 行けるのだろか

千の風 人は何かと 問うならば
 心が物に 転じられるか

千の風 死を前にして 課題あり
 その解決が ここにあるのか

「千の風になって」という曲の歌詞を読んだ感想。少し辛口の言い方かも知れませんが、……。

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ホトケと仏

刑事もののテレビを見ていると、刑事が死者を「ホトケ」と呼んで、手を合わせるシーンが出てくる。そこではホトケは死者と同じ意味なのだが、ホトケは仏に通じる言葉でもある。死者を意味するホトケが、いつしか仏教の理想である仏(覚者)の観念に移動する時、いつしか死者はすべて尊い存在となってしまう。

小泉元首相は、かつて、靖国神社参拝問題の中で、「人は死ねば、皆ホトケだ」と言ったことがある。その言葉の中に、日本人の宗教感情が隠されている。この点をもう少し、検証していかなければならない。

われわれが仏になる道がふたつある。一つは、菩薩につながり、修行をすることだ。しかし、その修行者が仏になるのは遠いことかも知れない。ところで、菩薩とは何か。「さとりを求めて修行する人」と辞書には書かれている。であれば、「悟っていない」のが菩薩かも知れない。しかし、悟ってからの修行もあっていいのではないだろうか。

しかし、もうひとつの道は、「死ぬ」ことである。人は死んでホトケとなる。刑事たちの「ホトケ」は肉体の死を意味している。しかし、死は肉体にのみ限らない。「自我に死ぬ」「無になる」こともまた死ではないのか。そして、それは悟りにつながるのだと思う。それはまた、仏になることに通じる。

生前、どんな悪逆非道なことをしても、人は死ぬことでホトケとなる。そのホトケから、仏教の理想を実現する仏が連想されていく。死んでしまえば、皆、ホトケ(仏)だ。そんな宗教観念には天国も地獄もない。しかし、仏という人生の目標が、どこか死を超えて理解されているように思われる。

もちろん、自殺の勧めをしているのではない。肉体の死のほかにも死と言われるものが、人間にはあるのではないか、それを超えてはじめて人は真の人になるのではないか、そういうことを言いたいのである。

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現代の糸

過去学ぶ 現代の糸 ないならば
 学ぶ意欲は なくなるだろう

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2009年3月10日 (火)

シベリア流刑民の歌

極寒のシベリアの地を
流刑民の列が進む
   
悲しい歌を口ずさみながら
鎖に繋がれ、頭を垂れて
   
しかし、来るべき世への
信仰を胸に抱きながら
   
隠れて流した子供の涙に
決意した、あの反逆の時を忘れず
   
そして運命を呪わず、黙々と
シベリアの大地を進み行く
   
やがてソ連が誕生し、それを信じた
しかし、今、ソ連は消えた
   
なお、来るべき世に
何を待ち望むのか
   
シベリア流刑民の歌は
今も響いているのだが   

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2009年3月 9日 (月)

病喜

病あり 天の乗り物 そう思い
 病気いつしか 病喜となれり

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老病

老病の 時を迎えて コペル君
 いかに生きるか ご教示のほど

吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』の主人公はコペル君といった。私は小学生の時に読んだが、今も、名著と思っている。ところで、「いかに生きるか」という問いは、人生にとって大切な問いである。今の、私の回答は、自己実現である。それを数独の中で教えられた。
宇宙の完成は、それぞれの自己実現を前提にしているのである。そして、私の自己実現は、他者の自己実現を誘発し、達成する。その可能性がある。その自己は、それぞれが違うのであり、私の「自己」を他者の目標には出来ない。
その自己実現の方法が、数独を解く中で、いろいろと教えられてくる。このパズルは宗教的、仏教的な思想を湛えているように、私には思われる。

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老いの日々

還暦後 日はすぐ過ぎて しまうけど
 天がける日の 期待ふくらむ

世に残す もの考えよ 初老人
 自分探しは 愛をヒントに

ゆっくりと 老いゆけよ我 急ぐなよ
 遺産を何に するか考え

老い進み 若さ失せども なお望む
 老いに美学を 結びつけんと

老いゆけば 障害多し 不自由で
 老いの終わりを 願うも道理

高齢者 死を前にして 生きる人
 絶壁に立ち 奈落を見ずに

なぜ見ない 見れば平衡 感覚が
 なくなり遂に 落ち込むだろう

その通り なのだが救い その中に
 絶対他力 はからい捨てて

老病の 家住みにくく 超越に
 心向けるは よきしるしなり

老いもまた 自然の国の 自然なり
 自然の価値に うなだるるのみ

老いるとは ゆっくりと死ぬ ことなのだ
 死ぬ喜びを 日々知るために

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2009年3月 8日 (日)

カトリックと無教会

『キリスト教をめぐる近代日本の諸相』(加藤信朗・監修、オリエンス宗教研究所、2008年)という本があります。第一部は「新渡戸稲造『武士道』再読」で、新渡戸と内村鑑三が取り上げられています。13人の協力で出来た本書の「論者のほとんどはカトリック信者」と書かれていますが、新渡戸と内村の問題意識が、第二バチカンと共鳴しあっていることを教えられます。カトリック側での無教会に対する関心は、これでよく理解できると思います。無教会の関心が、どのへんに向いているか、それは分かりませんが。

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旅装

荷を軽く 旅をするなら 楽しいよ
 文明は逆 荷を重くする
 
現代の世界的な経済危機は、荷を軽くする絶好の機会ではないでしょうか。所有は存在(神のようなもの)の獲得を意味するのか、それとも潜在的危機の増大を意味するのか、よく考えるべきかも知れません。所有欲に何か原罪のにおいを感じます。

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日本の青写真

日本の 青写真出す 幕末の
 若き志士らの 意気盛んなり

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刹那人

刹那人  脱却求め  何すべき
  刹那対象   それが一歩か

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2009年3月 6日 (金)

日独伊

先の大戦で負けた日本、ドイツ、イタリア三国の間に、日独伊三国同盟という軍事同盟があった。1940年(昭和15年)9月に調印された。日本の開戦の前年であった。この三国を見ていて、何を思うか。イタリアにはバチカンがあり、カトリックとの関係は深い。ドイツはルターを生んだプロテスタント発祥の国である。では、日本は?  日本の神道とユダヤ教との類似性を指摘する人たちがいる。本が何冊か出ている。こんな連想は何も生まないかも知れないが、なぜか、三国とも聖書に深く関係している国といえるかも知れない。

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2009年3月 4日 (水)

これからの宗教評論

ひろさちや、という名前の宗教評論家がいる。ご自身は仏教徒なのだが、広く、キリスト教やイスラム教などについても語っている。自分の立場は、どうしても一つの宗教の一つの宗派になるだろうが、これからは一つの宗教・宗派にとらわれず、幅広く論じる宗教評論家が必要となるのではないだろうか。残念ながら、キリスト教界で、そのように自由に評論できる人はいないのではないだろうか。あるいは、イエズス会の神父さんの中にいるかも知れないが、あるいは専門的になりすぎているかも知れない。カトリックの諸宗教対話は精力的だが、その成果を、分かりやすく、一般に紹介していける人が出る必要があるだろう。
多くの宗派・教派が、われわれの周囲にある。それらの一つに話を限定すると、堅苦しくなるし、論敵に共感を覚える時など、その共感を語ることができなくなる。
複眼的に、宗派・教派を自由に語った方が、聞く人の心に素直に入っていくような気がする。教派を渡り歩くことは、自分のアイデンティティの危機につながるのだが、どの教派も魅力があるし、その中での選択にはためらいを覚える時があるかも知れない。日蓮の、他宗派批判の有名な標語についても、あるいは解釈の余地があるのではないだろうか。直解主義的な解釈ばかりではないと思う。

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2009年3月 3日 (火)

夏の暑い日だった
空のかなたから
風が吹いてきた

自由に吹いていた
肌に快い風だった
夏もまたいいもんだ

[解釈]
単純な、あたりまえの自然現象を表現しているようだが、形而上世界の比喩ともとれる。そこでは、夏とは厳しい競争社会のことで、暑い日とは疲れている毎日を指しているのだろう。空(そら)は、空(くう)、無(む)の意味で、神の現れる場。風は聖霊という神。自由とは、人のコントロールの外にある、という意味。肌は人間の実存意識。夏は、あるいは人間の限界状況の場を意味しているのかも知れない。

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ただいま普請中

われわれが身をおく所は、どこもここもみな普請中である。その中で、少し時間が過ぎると専門家にならねばならない。人は生きている限り、どの仕事・環境を選択しても、「どこもここも普請中」という現実から逃れることはできないのだろう。生きるということは、この普請に参加することを意味するのかも知れない。そして、その普請に興味を持つ人が専門家になれるのだろう。

しかし、普請中という現実にもかかわらず、それに興味を持たない人たちもいる。それは別の興味があるのかも知れない。その興味をしっかり知って、普請中の場に入ることが必要かも知れない。

最近は、ブログやプロフといった、個人レベルの情報公開が盛んである。それも、恐らく、自分の関心・興味に関係する普請中の現場を探しているのであろう。自己認識と、それを通しての自己実現の道を無意識の内に選択しているのであろう。

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老婆の意思

老い迫り 子に背負われて 山登る
 姨捨山は 老婆の意思ぞ

年間3万人いると言われる自殺者。その対応問題が起きているが、単に「自殺はだめ、命を大切に」というだけでは、問題は解決しないのではないだろうか。

姨捨山を登る老婆は、よく考えれば自殺の意思を持っているし、また、老婆を背負う子は、見方を変えれば殺人を犯しているのかも知れない。この問題は、老いの問題の中に必ず起きるのである。さて、どう考えたらいいのか。「おくりびと」のアカデミー賞受賞を機に、老いと死の問題を考える時が来たのかも知れない。

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2009年3月 2日 (月)

自分探し

自分探しは求道である。
求道の王道である。

求道の覇道とは
自分探しを媒介にしない求道である。

自分探しは神探しと同じことである。
カルビンは綱要の冒頭に書いている。

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高台院

賢くも 高台院は 高みから
 時の流れを 読んで従う

信長・秀吉・家康の、あの時代、一番、賢かったのは、秀吉の妻、ねね(のちの北政所、秀吉の死後は高台院)ではなかったかと思います。

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時は探偵

時は探偵である、名探偵である。神は時という探偵を持っておられる。時には、この探偵に依頼することを考えてもよいのではないだろうか。

時の経過の中で、隠されているものが次第に明らかになるからである。自分の境遇や不幸など、不可解なことの解釈を即断せずに、静かに時の探偵に委ねてみるのも、一つの選択肢ではないだろうか。もちろん、問いは心に残しておくのである。

神の言葉は、こう言っているのだから。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」(ルカ8・17)

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最大の関心事

人間にとって、最大の関心事は「自分とはいったい何者か」ということである。実存的不安に対する回答である。そこに、魂の平安も含まれている。この関心事に答える事業こそ最大の顧客を呼ぶであろう。それは自己認識を求めるということでもある。このニーズがマーケットでは一番強いのである。

遺伝子研究、大脳研究なども、目的は医療などであっても、各人の自己認識に寄与するという一面があれば、大きな関心を呼ぶであろう。「人、全世界をもうくとも、己の魂を失わば、何の益かあらん」といった聖書の言葉もある。魂の永遠のすみかである地獄と天国、果たして自分の魂は、どこに住むのであろうか。その関心は一番強いはずだ。その意味では宗教的関心が一番強いのである。経済問題が最大関心事であるとは、私には思われない。

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自殺を考える

自殺者は、絶望者なのだろうか。そうではない。自殺者は確かに失望者ではあろう。そして、失望と絶望を取り違えたのである。だから、自殺しようとする人に対しては、別の希望を知らせることで、自殺を思いとどまらせることができる。これが自殺予防カウンセリングの意味なのであろう。しかし、その希望も、ニヒリズムを克服できるものではない。ニヒリズムは絶望に人を連れて行く。この絶望に、どう対処したらいいのだろうか。

人は絶望を生きることはできない。人は失望しても生きることはできる。それは他の希望に心を寄せればよいからだ。失望はすべての希望を失う絶望ではない。人は希望において生きるものであれば、絶望において生きることはできない。絶望において、なお存在しているためには、ただ、生まれ変わること、それ以外に方法がない。存在としては続いているが、別の存在なのだ。いや、同一存在でもある。これを何と言おうか。

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部屋掃除

部屋掃除 心の掃除 そう思え
 見える所を 無視するなかれ

見えるもの 変えてそこから 見えぬもの
 心理学にも 同様理論

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2009年3月 1日 (日)

与謝野馨大臣

フリー百科事典「ウィキペディア」によると、与謝野馨大臣は、「敬虔なカトリック信徒」とのことである。現在の、麻生首相と同じである。しかし、この信仰については、知らない人が多いのではないだろうか。ご自身で、この信仰を表明されたことを、私は知らない。

与謝野氏は、歌人で有名な与謝野鉄幹・晶子夫妻の孫である。父が鉄幹の次男である。あるいは、与謝野氏の信仰は、この祖父母に由来するのかも知れない。この、有名な夫妻は、実はカトリックの洗礼を受けていた。こんな記述がある。

「寛・晶子夫妻は最晩年カトリックに入信している。同人の「信仰派詩人」大井蒼梧、次女七瀬、六女藤のカトリック信仰に導かれ、寛は臨終洗礼を受けた。晶子も死去の二年前伊藤庄治郎神父から洗礼を受けた」
               (『講座 日本のキリスト教芸術 3 文学』日本キリスト教出版局、181頁)

公明党と創価学会との関係については、誰でも知っているであろうが、実は、現在の日本の政権の重要閣僚はカトリックの信徒なのだということは、余り知られていないのではないだろうか。当のカトリック教会も関心は全くないようである。日本という国は、不思議な国である。あるいは、日本のカトリック教会が不思議なのかも知れない。

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自灯明、法灯明

自灯明と法灯明は、矛盾するのではないか。法灯明は分かりやすい。しかし、自灯明は、それに対立するのではないか。

いや、両立するのである。法に照らされた我は、新しい我である。古い我ではない。自灯明の自は、古い我の意味ではない。

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恋愛

恋愛に 悲哀の因が 混じりたり
 それがなければ 味が落ちるか

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絶対無

何もない 絶対無の意 無の彼方
 有無の遊びが 人生の謂い

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ホームページ

新時代 ホームページを 作りしが
 何のためにか いつしか疎遠

反響が 分かればそれも 動機なり
 ブログ優先 いかに使うか

ホームページは、何のために、という動機が問題になるかもしれない。私は、ホームページよりも、ブログを優先している。最近では、プロフというものもあるようだ。これらは、自己実現の道具かもしれない。

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自己実現

神なしに 自己実現を 求む人
 不可解なりと 私は思う

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