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2009年3月23日 (月)

母なるもの

日本人のキリスト教信仰に足りないものとして「母なるもの」を指摘したのは遠藤周作氏であった。そのきっかけに内村鑑三の武士道が意識されていたという。井上洋治神父も、その着想を受け継いでいる。

それはカトリック信仰の中で、対プロテスタント信仰との比較から生まれたきたものであろうか。そうかも知れない。

ところで、カトリック信仰のマリア「信心」には、プロテスタントからの批判があり、今でも、そんな批判が繰り返されている。

しかし、マリアは神ではない、女神でもない。カトリック信仰の神は三位一体であり、その中にマリアはいない。しかし、マリアに祈る。それを取り次ぎとして説明する。だから、マリアに祈るのは神に祈るようなものではない。聖人たちも、神ではない。しかし、祈るという行為のために、その対象は神々とうつるのであろうか。

マリアからイエスに、イエスからキリストに、そして父なる神に。そういうつながりはあるかも知れない。だから、祈る行為の対象を横一列に「神」とみなす必要はないのではないだろうか。そうではなくて、そこに縦関係を考えてもいいのではないだろうか。

ところで、女性的なものの重要性を指摘していた人にゲーテがいた。母なるものに、何か、自分のすべてを告白できる気安さを感じることができる。母は、いつも自分の味方なのだという思いがある。そんな人も多いのではないだろうか。それは、父と対比してのことである。だから、母に告白して、父に執り成しをお願いする。そんな構図が家族関係の中にある。それが信仰にも反映しているのではないだろうか。

母なるものにおいて、回心が起きる。では、父なるものにおいては何が期待されるのであろうか。それは、個性化かも知れない。自己実現とも言えるかも知れない。しかし、自己実現よりも個性化の方が具体的のように思える。

その過程は、義認から聖化への過程でもあろう。

カトリックには、天使祝詞という祈りがある。マリアへの祈りである。もちろん、プロテスタントにはない。天使祝詞を祈れる幸いをカトリック信徒は感じてもいいかも知れない。たとえ、傍には誤解されようとも。

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コメント

アリストテレスが形相と質料で存在者を説明していた。トマス・アクィナスも、その考え方を受け継いでいた。それを信仰に当てはめた場合、どうなるのだろうか。
形相は男性的原理、父性的原理と言えるかも知れない。それに対して、質料は女性的原理、あるいは母性原理にあてはめることができるであろうか。遠藤周作は、その母性的原理の必要を訴えたが、そこには、カトリックの信仰の背景があったかも知れない。その中で、内村鑑三の武士道に接ぎ木された信仰における父性的原理が意識されていたのだろう。しかし、絶対他力信仰は、既に、その中に母性的原理を含んでいると思う。だから、プロテスタンティズムの信仰は、母性的原理を意味するマリア信心を「捨てた」としても、その信仰義認の中には、それが絶対他力信仰であれば、母性的原理が含まれているのである。
しかし、質料は形相において自己実現へと移行していかなくてはならない。そう考えれば、カルビンの改革派信仰が、ルターの信仰義認の、ある意味での、徹底、発展として自らを位置づけるのも了解できるように思う。
ルター主義とカルビン主義は、そう考えれば、相互補完的であり、選択を迫るようなものではないかも知れない。それは、仏教で言えば、浄土真宗と日蓮系法華教団の関係にも当てはまるであろうか。
質料と形相、母性的原理と父性的原理、それらは、どちらも必要である。そして、やはり、形相、父性的原理の実現へと秩序づけられているように思われる。

投稿: | 2009年3月25日 (水) 18時38分

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