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2009年3月11日 (水)

ホトケと仏

刑事もののテレビを見ていると、刑事が死者を「ホトケ」と呼んで、手を合わせるシーンが出てくる。そこではホトケは死者と同じ意味なのだが、ホトケは仏に通じる言葉でもある。死者を意味するホトケが、いつしか仏教の理想である仏(覚者)の観念に移動する時、いつしか死者はすべて尊い存在となってしまう。

小泉元首相は、かつて、靖国神社参拝問題の中で、「人は死ねば、皆ホトケだ」と言ったことがある。その言葉の中に、日本人の宗教感情が隠されている。この点をもう少し、検証していかなければならない。

われわれが仏になる道がふたつある。一つは、菩薩につながり、修行をすることだ。しかし、その修行者が仏になるのは遠いことかも知れない。ところで、菩薩とは何か。「さとりを求めて修行する人」と辞書には書かれている。であれば、「悟っていない」のが菩薩かも知れない。しかし、悟ってからの修行もあっていいのではないだろうか。

しかし、もうひとつの道は、「死ぬ」ことである。人は死んでホトケとなる。刑事たちの「ホトケ」は肉体の死を意味している。しかし、死は肉体にのみ限らない。「自我に死ぬ」「無になる」こともまた死ではないのか。そして、それは悟りにつながるのだと思う。それはまた、仏になることに通じる。

生前、どんな悪逆非道なことをしても、人は死ぬことでホトケとなる。そのホトケから、仏教の理想を実現する仏が連想されていく。死んでしまえば、皆、ホトケ(仏)だ。そんな宗教観念には天国も地獄もない。しかし、仏という人生の目標が、どこか死を超えて理解されているように思われる。

もちろん、自殺の勧めをしているのではない。肉体の死のほかにも死と言われるものが、人間にはあるのではないか、それを超えてはじめて人は真の人になるのではないか、そういうことを言いたいのである。

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