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2009年3月31日 (火)

シュライエルマッハー

佐藤優氏の公開「キリスト教神学概論」を読んでいて、シュライエルマッハーの意義というものが、新たに理解されたように思った。天動説から地動説への転換と、中世や古プロテスタンティズムの神理解と、シュライエルマッハーの神理解とを対比されて提示されれば、シュライエルマッハーの神理解に立つべきと思われてしまう。

恥ずかしい話ではあるが、このようなシュライエルマッハーの意義の説明に触れたのは、今回が初めてである。あるいは、これは、もう神学の領域では常識になっているのかも知れない。

転換は、このようである。神は天にいるのではなくて、人間の心の中にいる。天には神はいない。その天というのは、三次元における上を意味していたが、そこに神はいない。

しかし、もし、そのような天に神がいるとすれば、神は被造物になってしまうのではないか。宇宙の中にいる神は被造物ではないのか。だから、天は空間的な天ではない。中世や古プロテスタンティズムの神理解は、神の場所として、そういう天を考えていたのだろうか。少なくとも、ルターやカルバンらは、そうは考えていなかったのではないだろうか。そんな疑問を感じてしまう。

それに、シュライエルマッハーの立場に共感を示していて、同時に、あのバルトとブルンナーの論争の中では、バルトの立場に立つと、佐藤氏は言われている。

バルトは、もともと、シュライエルマッハー批判で知られる人ではないのか。彼以降の、キリスト教思潮に対して、強力な批判をしていた人ではなかったろうか。だから、バルトは、古プロテスタンティズムへの回帰を訴えた人ではないのだろうか。

こういうバルトにしても、なお、根本主義的(あるいは今では原理主義的と言うべきかも知れないが)なキリスト教神学者たちには批判されていた。

バルトの立場に立ちつつ、なお、シュライエルマッハーの神理解、その意義を評価している佐藤氏は、その間のつながりをどう考えておられるのか、私には、何か巨大な謎のように迫ってきた。

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コメント

こんばんは。君も私とにたように考えたようですね。人間の心の中に神がいるとすると人間が地球に登場する以前には神がいないことになる。私はキリスト教の信仰者でないから。すぐに破綻している言説だと気がつきました。2009年の2月19日に関連記事を書きました。

投稿: まえやま | 2009年10月31日 (土) 23時48分

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