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2009年4月29日 (水)

文化内開花

文化内開花という言葉は、既によく使われている言葉である。キリスト教をその国の文化の脈絡の中に位置づけて、その開花を構想するという意味であろう。福音宣教に際して、その国の文化を敵視したり、排除したりするアプローチは退けられている。

日本では、内村鑑三が、その意識を強く持っていた。カトリックの遠藤周作も、「母なるもの」の強調の中には、内村への批判もあったかも知れないが、日本人としての自分に合ったキリスト教を求めた点では、内村と同じ意識があったと思う。

文化内開花という言葉は、カトリックの中で、よく使われているが、それは既に他宗教との膨大な対話をもたらしている。これは、既に歴史もあり、内容も豊かなものである。

一方、内村については、その発想に共感する人は多いけれど、その影響は、プロテスタントにおける文化内開花の実験については余り知られていない場合が多いのではないだろうか。無教会の中ではなく、その周辺に、また別の流れの中に、プロテスタントの文化内開花の実験と成果が、すでに存在している。そんな情報を盛ったものが、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・R・マリンズ著、高崎恵訳、トランスビュー)である。

そこに取り上げられている教派は、余り注目されてこなかった。今も、そうかも知れない。それは独自の立場で、超教派の交流が少なかったからかも知れない。しかし、内村に共感する人たちは、その一つの展開である、これらの教派の「実験」を無視するわけにはいかないであろう。

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で、初めて知った教派もあった。名前は知っていたが、実態はよく知らなかった教派も、この本で理解を深めることができた。そこでは、西洋の著名な神学者たちの提供してきたキリスト教知識は余り役立たない。その抱えている、さまざまな「問題提起」を、どう受け止めるのか。それは「文化内開花」の課題に応えようとしている人たちにとって、具体的な判断材料を提起しているのではないだろうか。

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人生の達人

人生の達人とは、よく生きるということはどういうことか知っていて、そのように生きている人のことである。

それは、生きる意味、目的、目標を知っているということでもあろう。

スポーツ選手が、次の試合に向けて、練習し、動機を高めていく、そんな生き方が参考になる。

短期の目標、中期、そして長期の目標を持つことが、人生に勝利する秘訣なのである。この目標があやふやだったり、なかったり、そんな人たちは、到底、人生の達人にはなれないであろう。

だから、もし、それらの目標がなければ、問うことから始めなければならない。

人間は、恐らく、容易に求道生活に入るのである。それは、自分の中に根本的な欠けを自覚することに困難はないからである。その中で、哲学や宗教に自然に目が向くのではないだろうか。その過程で、ある人たちは、何かの転機を迎える。その転機を、悟りとか、救いとか、言うかも知れない。その転機を迎えた人にとって、人生の目標はどう変わるのだろうか。この点を、もう一度、吟味しなければならないと思う。

悟りは何度もあるのか、救いは何度もあるのか、あるいは一度限りなのだろうか。釈迦は、悟りの前後で、その生活を転換している。だから、その悟りは一度限りのものであろう。

新生も一度限り、それは洗礼が一度限りのものと対応している。

新生を救いともいう。であれば、新生者は、何を目標にすべきなのか。救いを目標にするのであれば、それは、新生における救いと、どう違うのか。新生し、聖化の道を歩んでいる者が、救いを目標にしているということで、新生における救いを目標にしているというのは、どこかおかしいのではないだろうか。

釈迦は、悟りのあとの人生で何を目標にしていたのか。自分の悟り、自分の救いではなかったと思う。

新生者は、新生を人生の目標にはできない。聖化の目標は新生ではない。聖化の目標は何か、その問いが、キリスト者に問われているように思う。その時、現れてくるのは、再臨・栄化かも知れない。しかし、教会で、それらが、どれほど語られているのだろうか。そのへんの反省から始めるのであれば、日本の教会もまた新しい力を受けるだろうと思う。

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2009年4月28日 (火)

他宗教への眼差し

「あら探しをする人がクリスチャンであるはずがない。彼はあらゆる人、あらゆるもののなかに、真実を求めずにはいられない人である。キリスト教の代表者で、他宗教のなかに暗黒を見出して喜ぶ人があるとすれば、彼はキリスト教を少しも代表してはいない。キリスト信者は、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、あらゆるところで、良いものに出会えば喜ぶのである。彼の眼は鋭敏となって光を見つけ出し、彼は暗きを見ることをいとうのである。それゆえキリスト教がその混じりけのない光をもって輝くとき、キリスト教は、世界のうちにある最善なる者の発見者となる」(『内村鑑三英文論説翻訳篇』下巻、岩波書店、289-290頁)

内村鑑三のこの文章を読んでいて、第二バチカンの、諸宗教への見解を明確にした「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」と同じ精神が盛られていると思った。であれば、内村は、第二バチカンの精神を先取りしていたのである。カトリックは無教会に学ぶところがあるのではないだろうか。

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「天台宗原理主義」

「日蓮宗は、ある意味「天台宗原理主義」的性質をもっているからだ」(『不干斎ハビアン』釈徹宗著、新潮選書、56頁)

「天台宗原理主義」という言葉は、この本で初めて知ったのだけれど、日蓮宗にあてはめている。日蓮の他宗への批判を思うと、なるほどと思う。天台宗とは、法華経を根本経典として、一乗主義の立場に立っているからである。

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二つの教え

「キリスト教はこうして現世と来世の双方を肯定するのですが、両者の中間を歩むキリスト者は、じょうずに均衡をとる必要があります。もし人間は罪によってまったく堕落しているから善業へのいかなる意志も無意味であるとか、人間は神の絶対的な意志によって死後の運命を定められているとか、そういう考え方に傾くなら、現世はただ暗黒の流謫(るたく)の地と化してしまうでしょう。カトリックの教えでは、成聖の恩恵による内的聖化、自由意志による善業の功徳、神との親しい交わりといった根本教義があって、現世と来世とのあいだの緊張を取りのぞき、両者を包み込んで肯定する精神的態度をとらせるのです。」(『人生と愛』ハインリッヒ・デュモリン著、巽豊彦編、南窓社、140頁)

「人間は罪によってまったく堕落しているから善業へのいかなる意志も無意味である」という部分はルターを、「人間は神の絶対的な意志によって死後の運命を定められている」という部分はカルビンを意識されているのではないだろうか。著者はカトリックの神父であったから、この二つへの批判はプロテスタント批判を意味しているのかも知れない。

しかし、前者は信仰義認の教えで、カトリックもこれを認めている。また後者は、神の全能の指摘であり、これもカトリック信仰の中にある。だから、これらの批判は、自分に向けられるかも知れないのである。

「成聖の恩恵による内的聖化」は、プロテスタントの教えでもあろう。特にウェスレーは、それを強調した。

「自由意志による善業の功徳」については、もし、義認・新生の前に言われているのであれば、それは半ペラギウス主義として、プロテスタントのカトリック批判の中心点であろう。しかし、半ペラギウス主義は、カトリックの歴史の中でも批判されていたのではないだろうか。義認・新生は絶対他力信仰によるとは、両者の主張と思う。しかし聖化の段階においては、「自由意志による善業の功徳」は意味を持つものと思う。それは義認・新生を得るためのものではなく、栄化に秩序づけられているのだけれど、義認・新生における救いに秩序づけられていると誤解されると、半ペラギウス主義になるのである。

「神との親しい交わり」も、ウェスレーは強調していた。

だから、著者が、カトリック信仰と考え、それでプロテスタント批判をしている教えそのものも、ある人たちには、プロテスタントの教えなのである。

だから解釈がどうしても必要なのである。

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2009年4月26日 (日)

「死線を越えて」

賀川豊彦の小説『死線を越えて』の復刻版が書店に出ていた。今年、2009年が賀川豊彦献身100年の年なので、それにあわせての出版らしい。版元はPHP研究所で、山折哲雄氏が推薦の言葉を書いている。

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資本主義社会

競争は なくては困る あればとて
 過ぎたるは悪 ほどほどにせよ
 
「過ぎたるは悪」を取り上げたのが社会主義なのでしょう。しかし、共産主義にまでいくと、少し行き過ぎかも知れません。「ほどほど」というところに、賀川豊彦の協同組合運動があったのかも知れません。

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最後の仕事

思想家が 思索の力 失って
 ただ祈るのみ 最後の仕事

吉満義彦のドイツ語の詩に、そんな内容のものがありました。「私は考えることが出来ない。ただ祈るのみである。……」

祈りは、人間に残された最後の仕事であるかも知れない。そして、一番大切な仕事であるかも知れない、と思います。

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2009年4月24日 (金)

宣教の開始

今年はプロテスタントの宣教150年にあたり、諸行事が計画され、既に、始まっています。

しかし、私は、日本におけるカトリックの宣教のことを考えています。プロテスタントとカトリック、歴史的に見れば対立的にも見られるかも知れませんが、プロテスタントはカトリックの一点強調主義のようにも思えます。プロテスタントの大いなる問題提起はカトリックの覚醒にもつながるかも知れません。

思うのは、ザビエルの昔、日本におけるキリスト教宣教開始の時のことです。彼の話を聞いて、日本人は、思いました。この福音を聞かなかった先祖は、果たして救われるのだろうか。この問いは、今でもあるのではないでしょうか。ここで、端的に否定的に回答したら、日本の人たちは、福音を信じることにためらいを覚えるかも知れません。歴史は、そんな思いがあったと記しています。

ザビエルの昔、どんな回答があったのかは、知りません。しかし、今、それに対して、回答していく中に、日本のキリスト教宣教があるような気がしています。

プロテスタントでは顧みられない、また否定される、煉獄の考え方がカトリックにはあります。あるいは、中には理解を示しているプロテスタントの人もいるかも知れません。そして、仏教には「先祖供養」という考え方もあり、その重要性を指摘されています。無名のキリスト者、煉獄、先祖供養、そんなキーワードの連関を考えていくと、何かが見えてきます。

先祖を思うことは、自分の歴史性を確認し、深めていくことを意味するのではないでしょうか。キリスト者たちが日曜日ごとに礼拝に出るのも、イエスの死を覚え、それを通して、復活のキリストとつながることではないでしょうか。であれば、生者と死者との関係の中に、自分を進んで置くという行為においては、先祖供養と類似しているように思います。先祖は、あなたとつながりたく思っているかも知れない。先祖を大切にすることが、今の自分を大切にすることにつながるのかも知れない、と思います。

今年はプロテスタント宣教150年の記念の年です。そして、私は、あのザビエルの昔にまで戻って、あの時の日本人の素直な疑問に応える形での宣教が見いだされれば、それはカトリックにおける新しい宣教の開始のような気がしています。

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2009年4月21日 (火)

神の母

神の母 人の母なら 信無用
 神の因なら それは誤解だ

神の因 真も含むと 我思う
 受諾の祈り すべての始め

マリアを「神の母」と言いますが、不思議な言い方だと思います。しかし、その正しい解釈を求めていくと、大切な真理がその中にあると思われてきます。

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勝負の時間

歩く時 勝負の時間 何するか
 歩考祈の時 豊穣の因

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そんなことはない

「置換神学は間違っているのか」
「そんなことはない」
「ユダヤ人を神は見捨てたのか」
「そんなことはない」
「これら二つは対立しているのではないか」
「そんなことはない」
「しかし、誰も、二つが両立しているとは考えないのではないか」
「そうかも知れない」

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2009年4月20日 (月)

人生の達人

人生の達人になるためには、何が必要だろうか。それは生きる目標を設定すること、また見いだすことである。短期・中期・長期の目標を見いだすことである。

その時、長期目標は最終目標であろう。そして、それが一番、大切である。それは何か。宇宙の完成なのだろう。宇宙の完成などと言うと、とてつもないもので、科学者には「たわごと」に聞こえるかも知れない。人間の手の届かないところにあるのが宇宙という概念なのではないだろうか。

「宇宙の完成」は、実は内村鑑三の最後の言葉の中にあるものだけれど、再臨との関係は当然、予想されるものであろう。ただ、再臨というと、我々はただ待つのみということになるかも知れないが、宇宙の完成であれば、行動につなげることができる。義認の門を通過した聖化の目標であり、義認の手前にいる人たちの目標ではない。そして、再臨がキリスト教信仰の欠くべからざる要件であれば、その限りで「宇宙の完成」という目標・考え方も信仰の中に捉えられるのではないだろうか。

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浜尾新

Rimg0247 東大の安田講堂の、向かって右側に一人の男性の坐像(写真)がある。その下に略歴・功績の説明プレートがあり、浜尾新(1849-1925)とある。この大学の第三代総長をされた方である。

しかし、浜尾という名前は、別の方面でも有名である。

濱尾文郎氏(1930-2007)は、カトリックの枢機卿だった。実兄の濱尾実氏(1925-2006)は東宮侍従で、よくテレビにも出ていた。

この兄弟の父、四郎氏は濱尾新の養子になった人。だから、東大の浜尾新は、よく知られた濱尾兄弟の義理の祖父にあたる。そして、この兄弟の曽祖父には、また東大総長だった加藤弘之の名前がある。

帰り道、東大からお茶の水駅までのバスの中で、一人の老人が新聞を見ていた。東大の新聞であろうか、1面には、矢内原忠雄の写真があった。何か展示があるらしい。共に無教会の、南原繁と矢内原忠雄が続けて東大の総長になった。そこから無教会と東大との関係が連想されても、カトリックと東大との関係は、余り視野に入らないかも知れない。しかし、浜尾新という人の親族関係を思う時、日本の中枢にカトリックの影響もあるのではないかと思う。キリスト教信徒は1%と、その現実への嘆きと、その壁突破への働きかけがあっても、現在の日本は、そんなにも悲観すべきものではないようにも思う。「望みの洗礼」「無名のキリスト者」など、教会の周辺にも暖かい目を向ける必要があるように、私は思う次第。

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2009年4月19日 (日)

救い

救われて  為すことは無し  この世にて
  未完重荷と  新たな課題

我が救い  新生で完  そのあとは
  宇宙完成  意識は違う

救いというものが何を目指しているものか、厳密に考えてみる必要があるように思いました。

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予防

災害の  予防警戒  怠らず
  我が死の準備  今日も死角に

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2009年4月17日 (金)

良寛の世界

昨日と今日の二回、NHKラジオ深夜便の「こころの時代」で、作家・新井満氏が、最近、出された自分の自由訳を朗読しつつ、良寛の世界を紹介された。

良寛の生き方には「知足」と「楽しみ」の両方があるとのこと、それを結論として指摘されたが、大切な点と思った。「知足」だけでも、「楽しみ」だけでも、良寛理解は不十分で、その両方が結びついている世界が、良寛の真の世界なのだということが分かって、深く共鳴した。日本のフランシスコのような印象を持った。自分の新潟地震の体験と共に、良寛の世界を説明されていく過程など、聴取者たちは深く納得されたのではないだろうか。

新井氏が芥川賞を受賞された時、私は取材で、式に同席した。残念ながら、小説は読んでいないし、その後も余り、その仕事に関心を持っていなかった。「千の風になって」で、新井氏の世界の一端をのぞかせてもらったような気がしたが、今回の「こころの時代」を聞いていて、宗教的な領域に題材を探している作家なのだということが分かった。今後のご健闘をお祈りします。

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2009年4月15日 (水)

「新しい中世」

『季刊 日本思想史』(NO.72、2008、日本思想史懇話会編集、ぺりかん社)には、「吉満義彦の「近代日本カトリシズム」」(鶴賀賀雄)という論文が掲載されていますが、その中で、「新しい中世」の注があります。

「「新しい中世」という言い方は、ベルジャーエフやドーソンによって唱えられ、近代西欧文明への批判を中世キリスト教文化の再評価と結びつける歴史哲学的スローガンとして当時一定の反響を呼んでいた」(104頁)とあります。

私の場合は、ベルジャーエフの言い方からとったものですが(その邦訳には「新しき中世」が使用されていました)、吉満も、提唱者たちに同意するかたちで、この言葉を使っていたようです。また、クリストファー・ドーソンも唱えていたということですが、そちらの文献は知りません。

当時は一定の反響があったようですが、今は、どうでしょうか。今では、西洋一辺倒ではなく、東洋や日本というものがもっと顧慮されなければならないでしょう。第二バチカンは、その方向に道を開いたのかも知れません。その中で、新しい総合を目指す時、それは歴史的中世の回帰ではなくて、「新しい中世」の創造となるのではないかと思います。そんな方向が目指されているような気がします。

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2009年4月14日 (火)

実存的な生き方

美空ひばりさんに「今日の我に明日は勝つ」という言葉があります。実存的生き方の標語のような言葉です。

否定神学も、実存的な生き方を示唆しているように思えます。

また、無、絶対無などの言葉を残した西田哲学のことを思います。

恐らく、原罪の観念がないと言われている日本人にも、ニヒリズムが何かは、あるいは、ある人たちには強烈に意識される可能性があると思います。それが、あるいは原罪のもたらす結果なのかも知れません。

ニヒリズムは無の思想を生み出すでしょう。仏陀も同じような意識から探求の旅を始めたのだと思います。

絶対無は、その無の否定、絶えざる否定を意味するのだとしたら、それは美空ひばりの言葉と通じるものがあると思います。

無を感じ、その無を突破する所に絶対無があるとしたら、それは神につながるものと思います。こういう姿勢、生き方が、日本人には、あるいは日本のキリスト者には相応しいのではないかと思います。色即是空は皆、知っています。しかし、それは空即是色に転換しなければなりません。

その超越の姿勢が、どこかで固定する時、そこに偶像があるのかも知れません。

我々は、その意味では、偶像から自由ではありません。しかし、それを知っているのと、知らないのとでは、大いに違うと思います。

絶えざる否定、そして超越、そんな生き方をしたいと思います。これは、そう思う個人が、まず実践するところから始まるのでしょう。

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生活改善

だらしなき 日々の生活 反省す
 いや猛省す 大改革へ

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2009年4月13日 (月)

展望

絶対無 矛盾同一 その案を
 借りて展望 教えの未来

矛盾同一は、絶対矛盾的自己同一のことです。西田哲学のことです。西田哲学のキリスト教的解釈の中に、未来を展望できるのではないかと思います。西田哲学の下地は仏教ですが、それは日本的でもあると思います。『日本の正統』の中で、お二人の対談がありますが、西田哲学を、そのままではなくて、「西田哲学のキリスト教的解釈」というものに置き換えた時、もう少し、その重要性が高まるのではないかと思います。そんな本も何冊か出ていますが、このテーマには未来があるような気がします。

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2009年4月12日 (日)

無限なる神

神無限  偶像は逆  縁結べ
  神に向かえば  成長無限

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桜散る

桜散る はかなき命 一時(いっとき)の
 宴も終わりぬ いつもに戻る

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2009年4月10日 (金)

キェルケゴール

キェルケゴールは当時のデンマークの中で、ルターのような意識を持ったかも知れない。社会全体がキリスト教になっている中で、何かが忘れられているような気がしたのだろう。

バルトが、キェルケゴールに学びつつ、それを超えていったのも分かるような気がする。もちろん、キェルケゴールの示した根本的なものは、バルトの中に残ったのであり、それは、ブルンナーとの論争にも現れている、あの排他主義的姿勢である。

ルターもキェルケゴールも、言ってみれば、義認(新生)に焦点をあてたのである。すなわち洗礼の示すものである。中世において、またキェルケゴールの生きたデンマークにおいて、洗礼の示す真の超越が見失われやすかったということは、理解できることだ。この世の子らは光の子らよりも賢いし、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)といったイエスの言葉にもかかわらず、二つの国が、どこかで「交換可能」にように存在している時、ある人々には、あのイエスの言葉は重く響いてくるのではないだろうか。超越、絶対他者の言葉もまた、そのような中で生まれたのかも知れない。

それらは、その限りでは正しい。しかし、信仰には、それに続いて聖化の課題がくる。ルターやカルヴァン、そしてウェスレーにおいて、その課題への応答は違った。可見的教会の形成をどう考えたらいいのかという課題への応答で、それぞれの置かれた環境が違ったからである。

さて、キェルケゴールはヘーゲル批判でも知られる。ある意味で、ヘーゲルは聖化論のなかで、弁証法を思考していたのではなかったろうか、と思った。キェルケゴールのヘーゲル批判は、義認・新生論からの批判ではなかったろうか。

正・反・合の論理の中に超越はない。ある人は、合は超越ではないかと、反論するかも知れない。確かに、超越のように見える。しかし、その歴史的・漸進的な発展に、止揚契機があっても、それは真の超越なのだろうか。何度も繰り返される合・点、止揚点に対して、超越は、その理解の根拠と見られる義認・新生に対応する洗礼が一回のみであるように一回のみであるとは思えないだろうか。弁証法的歴史観で、合・点が一回のみとは考えられないであろう。だから、合点は超越のようではあるけれども、真の超越なのかどうか、という疑問がありうるかも知れない。

要するに、ヘーゲルにおいては、義認(新生)の真理が捨象されていたのかもしれない、という問題提起である。そこにキェルケゴールは着目したのではないか。

逆に見れば、ヘーゲル的弁証法は、聖化論と関係しているのではないだろうか。その限りでは、その限定の中では、何か正当な、真理の一面を雄弁に指摘しているのかも知れない。

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2009年4月 8日 (水)

聖霊神学

神秘主義 神秘神学 なぜ言わぬ
 聖霊の学 やっと気がつく

聖霊神学という名前は、小野寺功氏の著書にあります。カトリックの中では、神秘という言葉が使われてきたと思いますが、なぜ、聖霊という言葉が使われなかったのかと、思いました。神秘とは、聖霊の働きにおいて、初めて認識されるのではないでしょうか。もちろん、ここでの認識の主体は、五感ではなく、別の主体と思います。それは何か。

A・シュバイツァーによれば、神秘主義には、神神秘主義とキリスト神秘主義があるとのこと。パウロの場合は、キリスト神秘主義だそうです。神秘主義を肯定的に見るか、否定的に見るか、それは神秘主義の定義とも関係しているのではないかと思います。

ウェブ上に、「西田哲学から聖霊神学へ」という発題内容が紹介されています。

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/sono_ta/Touzai_Shukyo/pdf/DJZ17-Onodera(1).pdf

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2009年4月 7日 (火)

マリアへの眼差し

観音の 面影もあり マリアさま
 絶対他力 誰をも受容

取り次ぎ者 神ではないと 思えども
 女神に見立て 批判する人

イエス産み キリストを生む 祈りつつ
 教会今も マリアの如く

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5S運動

家の近くで、マンションの建設に向けての工事が始まっています。その現場に「5S運動実施中」というプレートがありました。5S運動とは何か。それは、「整理・整頓・清潔・清掃・しつけ」の5つだそうです。

「整理・整頓・清潔(あるいは清掃)」は、誰でも思いつきますが、それに「しつけ」が加わっています。5Sの5は、それらの項目の数が5であるという意味、また、Sは、それぞれがローマ字のSから始まっているという意味と思います。

「しつけ」というのは、普通は親が子どもに向かって生き方を教えるという意味と思いますが、ここでは親子関係はありません。従って、作法という意味かも知れません。作法を守るということは、集団で何かをする場合の人間関係では大切な要素になります。

5S運動は、何も現場に限ったことではなくて、個人生活にもあてはまることと思います。覚えておこうと思います。

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変革の時

核の傘 同盟の意味 傘失せて
 問われる形 日本の未来

核無くせ 大統領の 提案は
 米のみならず 日本にもまた

米国のオバマ大統領の核軍縮の提案は歓迎されている。また、米国の核使用に対する「道義的責任」への言及もまた、日本では大いに評価されている。「終戦のため」という理由で、是認・肯定されてきた核使用だったが、それと同時に、「道義的責任」への痛みもまた、米国の中にはあるということなのだろうか。

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加藤周一さん

昨年12月5日に亡くなった評論家の加藤周一さんが、生前、カトリックの洗礼(洗礼名はルカ)を受け、で、葬儀は、12月5日、カトリック上野毛教会で行われた、という。まだ意識がはっきりしていたころというから、ご自身の意志で受けられたのだろう。

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2009年4月 6日 (月)

内村鑑三研究セミナー

第24回内村鑑三研究セミナーが6月20日(土)午後2時~5時、富坂キリスト教センター1号館(文京区小石川2-9-4)で開かれます。報告は次の通り。

「内村鑑三と古今和歌集」今高義也(宮城学院高校教諭)
「生命のふしぎなる理性--中田重治、内村鑑三と木村清松の再臨運動--」ゾンターク・ミラ(富坂キリスト教センター総主事)

会場費・報告要旨代 500円

問い合わせ先 富坂キリスト教センター研究部門(03-3812-3852)

主催 『内村鑑三研究』編集委員会

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2009年4月 5日 (日)

賀川特集

『季刊「あっと」at』15号(太田出版、2009年4月6日)で、賀川豊彦の特集が組まれています。

特集「賀川豊彦の現代的可能性を求めて」が、そのタイトル。

一般の書店にはないと思いますが、新宿・ジュンク堂書店にはありました。

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第二バチカン

サイトの中には、カトリック教会の一部に、第二バチカンへの批判を書いている人がいるが、対プロテスタント、対諸宗教の関係では、第二バチカンの姿勢は非常に評価できるのではないだろうか。第二バチカンがなかったら、諸宗教対話は今のようには盛りあがらなかったと思う。偏見のある所では、対話は成り立たない。第二バチカン以前の姿勢のままで、今日のような対話が生まれたであろうか。しかし、対話は、まだ、始まったばかりと言えるかも知れない。

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伝道の条件

伝道とは新生への招きなのである。それは、自ら新生し、聖化の道を歩んでいる人においてのみ、有効なのである。この条件を欠く時、伝道は重荷となるのではないだろうか。逆に、聖化の道を歩む人においては、伝道は自然に行われているのではないだろうか。大宣教命令というものがある。復活のキリストが福音宣教を弟子たちに命じた言葉を指す。しかし、それは聖化の道を行くことと無関係ではない。それを前提にしているのではないだろうか。

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日本のかたち

この国に 今生きるとは あの心
 西田先生 矛盾同一

憲法と 同盟に生く 矛盾あり
 乗り越えるもの 不可見の見

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形相

形相の 歌集残せし 信徒あり
 無教会人 その題選ぶ

内村は、無教会は有教会にならねばならぬと言っていた。

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桜花

赤の如 激しさはなく 似てもいて
 桜花のピンク 春の到来

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数独の思想

数独のマスはマンダラのようである。宇宙のようである。ゼロ以外の全ての数字が使われている。ゼロは神、それ以外の全ての数字は、全被造世界を意味していると見れば、これは宇宙の完成を目指すゲーム、パズルのようでもある。

このゲームから、いくつかのことを教えられている。

①確定数字は、個性の完成、自己実現を意味している。これは確定数字を求めていくゲームなので、見方を変えれば、それは、自己実現、個性の完成を求めていくゲームともいえるであろう。
②その時、他の確定数字との関係の中で、自己実現を求めていくのである。それは、縁の思想である。自己実現のためには、縁が絶対に必要なのだとの教えが、そこにある。これは仏教の大切な教えでもある。
③分かるところから始めて、情報を積み重ねることの肝要を教えられる。
④確定数字が生まれたら、それは、必ず、他の未完の数字にも作用する。その作用に着目した時、聖人の執り成しの考えも分かるかもしれない。確定数字は、ある意味で聖人に対応している。
⑤従って、本当の自己実現は、自分だけの問題ではなくて、他者の自己実現にも作用して、最終的には宇宙の完成のためになるのである。自己実現の本当の目的は宇宙の完成ということが分かる。本当の救いは、自分だけ救いを意味しない。

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2009年4月 3日 (金)

日本の未来

日本の 未来を憂う 若人ら
 幕末維新 今はどうかな

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計画性

計画の ないところには 秩序なし
 整理整頓 まずはそこから

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