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2009年4月10日 (金)

キェルケゴール

キェルケゴールは当時のデンマークの中で、ルターのような意識を持ったかも知れない。社会全体がキリスト教になっている中で、何かが忘れられているような気がしたのだろう。

バルトが、キェルケゴールに学びつつ、それを超えていったのも分かるような気がする。もちろん、キェルケゴールの示した根本的なものは、バルトの中に残ったのであり、それは、ブルンナーとの論争にも現れている、あの排他主義的姿勢である。

ルターもキェルケゴールも、言ってみれば、義認(新生)に焦点をあてたのである。すなわち洗礼の示すものである。中世において、またキェルケゴールの生きたデンマークにおいて、洗礼の示す真の超越が見失われやすかったということは、理解できることだ。この世の子らは光の子らよりも賢いし、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)といったイエスの言葉にもかかわらず、二つの国が、どこかで「交換可能」にように存在している時、ある人々には、あのイエスの言葉は重く響いてくるのではないだろうか。超越、絶対他者の言葉もまた、そのような中で生まれたのかも知れない。

それらは、その限りでは正しい。しかし、信仰には、それに続いて聖化の課題がくる。ルターやカルヴァン、そしてウェスレーにおいて、その課題への応答は違った。可見的教会の形成をどう考えたらいいのかという課題への応答で、それぞれの置かれた環境が違ったからである。

さて、キェルケゴールはヘーゲル批判でも知られる。ある意味で、ヘーゲルは聖化論のなかで、弁証法を思考していたのではなかったろうか、と思った。キェルケゴールのヘーゲル批判は、義認・新生論からの批判ではなかったろうか。

正・反・合の論理の中に超越はない。ある人は、合は超越ではないかと、反論するかも知れない。確かに、超越のように見える。しかし、その歴史的・漸進的な発展に、止揚契機があっても、それは真の超越なのだろうか。何度も繰り返される合・点、止揚点に対して、超越は、その理解の根拠と見られる義認・新生に対応する洗礼が一回のみであるように一回のみであるとは思えないだろうか。弁証法的歴史観で、合・点が一回のみとは考えられないであろう。だから、合点は超越のようではあるけれども、真の超越なのかどうか、という疑問がありうるかも知れない。

要するに、ヘーゲルにおいては、義認(新生)の真理が捨象されていたのかもしれない、という問題提起である。そこにキェルケゴールは着目したのではないか。

逆に見れば、ヘーゲル的弁証法は、聖化論と関係しているのではないだろうか。その限りでは、その限定の中では、何か正当な、真理の一面を雄弁に指摘しているのかも知れない。

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