« 「死線を越えて」 | トップページ | 「天台宗原理主義」 »

2009年4月28日 (火)

二つの教え

「キリスト教はこうして現世と来世の双方を肯定するのですが、両者の中間を歩むキリスト者は、じょうずに均衡をとる必要があります。もし人間は罪によってまったく堕落しているから善業へのいかなる意志も無意味であるとか、人間は神の絶対的な意志によって死後の運命を定められているとか、そういう考え方に傾くなら、現世はただ暗黒の流謫(るたく)の地と化してしまうでしょう。カトリックの教えでは、成聖の恩恵による内的聖化、自由意志による善業の功徳、神との親しい交わりといった根本教義があって、現世と来世とのあいだの緊張を取りのぞき、両者を包み込んで肯定する精神的態度をとらせるのです。」(『人生と愛』ハインリッヒ・デュモリン著、巽豊彦編、南窓社、140頁)

「人間は罪によってまったく堕落しているから善業へのいかなる意志も無意味である」という部分はルターを、「人間は神の絶対的な意志によって死後の運命を定められている」という部分はカルビンを意識されているのではないだろうか。著者はカトリックの神父であったから、この二つへの批判はプロテスタント批判を意味しているのかも知れない。

しかし、前者は信仰義認の教えで、カトリックもこれを認めている。また後者は、神の全能の指摘であり、これもカトリック信仰の中にある。だから、これらの批判は、自分に向けられるかも知れないのである。

「成聖の恩恵による内的聖化」は、プロテスタントの教えでもあろう。特にウェスレーは、それを強調した。

「自由意志による善業の功徳」については、もし、義認・新生の前に言われているのであれば、それは半ペラギウス主義として、プロテスタントのカトリック批判の中心点であろう。しかし、半ペラギウス主義は、カトリックの歴史の中でも批判されていたのではないだろうか。義認・新生は絶対他力信仰によるとは、両者の主張と思う。しかし聖化の段階においては、「自由意志による善業の功徳」は意味を持つものと思う。それは義認・新生を得るためのものではなく、栄化に秩序づけられているのだけれど、義認・新生における救いに秩序づけられていると誤解されると、半ペラギウス主義になるのである。

「神との親しい交わり」も、ウェスレーは強調していた。

だから、著者が、カトリック信仰と考え、それでプロテスタント批判をしている教えそのものも、ある人たちには、プロテスタントの教えなのである。

だから解釈がどうしても必要なのである。

|

« 「死線を越えて」 | トップページ | 「天台宗原理主義」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「死線を越えて」 | トップページ | 「天台宗原理主義」 »