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2009年4月29日 (水)

人生の達人

人生の達人とは、よく生きるということはどういうことか知っていて、そのように生きている人のことである。

それは、生きる意味、目的、目標を知っているということでもあろう。

スポーツ選手が、次の試合に向けて、練習し、動機を高めていく、そんな生き方が参考になる。

短期の目標、中期、そして長期の目標を持つことが、人生に勝利する秘訣なのである。この目標があやふやだったり、なかったり、そんな人たちは、到底、人生の達人にはなれないであろう。

だから、もし、それらの目標がなければ、問うことから始めなければならない。

人間は、恐らく、容易に求道生活に入るのである。それは、自分の中に根本的な欠けを自覚することに困難はないからである。その中で、哲学や宗教に自然に目が向くのではないだろうか。その過程で、ある人たちは、何かの転機を迎える。その転機を、悟りとか、救いとか、言うかも知れない。その転機を迎えた人にとって、人生の目標はどう変わるのだろうか。この点を、もう一度、吟味しなければならないと思う。

悟りは何度もあるのか、救いは何度もあるのか、あるいは一度限りなのだろうか。釈迦は、悟りの前後で、その生活を転換している。だから、その悟りは一度限りのものであろう。

新生も一度限り、それは洗礼が一度限りのものと対応している。

新生を救いともいう。であれば、新生者は、何を目標にすべきなのか。救いを目標にするのであれば、それは、新生における救いと、どう違うのか。新生し、聖化の道を歩んでいる者が、救いを目標にしているということで、新生における救いを目標にしているというのは、どこかおかしいのではないだろうか。

釈迦は、悟りのあとの人生で何を目標にしていたのか。自分の悟り、自分の救いではなかったと思う。

新生者は、新生を人生の目標にはできない。聖化の目標は新生ではない。聖化の目標は何か、その問いが、キリスト者に問われているように思う。その時、現れてくるのは、再臨・栄化かも知れない。しかし、教会で、それらが、どれほど語られているのだろうか。そのへんの反省から始めるのであれば、日本の教会もまた新しい力を受けるだろうと思う。

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