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2009年4月24日 (金)

宣教の開始

今年はプロテスタントの宣教150年にあたり、諸行事が計画され、既に、始まっています。

しかし、私は、日本におけるカトリックの宣教のことを考えています。プロテスタントとカトリック、歴史的に見れば対立的にも見られるかも知れませんが、プロテスタントはカトリックの一点強調主義のようにも思えます。プロテスタントの大いなる問題提起はカトリックの覚醒にもつながるかも知れません。

思うのは、ザビエルの昔、日本におけるキリスト教宣教開始の時のことです。彼の話を聞いて、日本人は、思いました。この福音を聞かなかった先祖は、果たして救われるのだろうか。この問いは、今でもあるのではないでしょうか。ここで、端的に否定的に回答したら、日本の人たちは、福音を信じることにためらいを覚えるかも知れません。歴史は、そんな思いがあったと記しています。

ザビエルの昔、どんな回答があったのかは、知りません。しかし、今、それに対して、回答していく中に、日本のキリスト教宣教があるような気がしています。

プロテスタントでは顧みられない、また否定される、煉獄の考え方がカトリックにはあります。あるいは、中には理解を示しているプロテスタントの人もいるかも知れません。そして、仏教には「先祖供養」という考え方もあり、その重要性を指摘されています。無名のキリスト者、煉獄、先祖供養、そんなキーワードの連関を考えていくと、何かが見えてきます。

先祖を思うことは、自分の歴史性を確認し、深めていくことを意味するのではないでしょうか。キリスト者たちが日曜日ごとに礼拝に出るのも、イエスの死を覚え、それを通して、復活のキリストとつながることではないでしょうか。であれば、生者と死者との関係の中に、自分を進んで置くという行為においては、先祖供養と類似しているように思います。先祖は、あなたとつながりたく思っているかも知れない。先祖を大切にすることが、今の自分を大切にすることにつながるのかも知れない、と思います。

今年はプロテスタント宣教150年の記念の年です。そして、私は、あのザビエルの昔にまで戻って、あの時の日本人の素直な疑問に応える形での宣教が見いだされれば、それはカトリックにおける新しい宣教の開始のような気がしています。

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コメント

福音を聞く機会を持ちなかった先祖の救いに関しては、既に、プロテスタントの土着教派には回答があり、実践されているようです(『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』マーク・R・マリンズ著、高崎恵訳、トランスビュー、参照)。あのザビエル当時の日本人の問いへの回答が既にあるということ、それもプロテスタントの教会にあるということ、それは覚えておくべきことでしょう。そのような回答に対して、一般の教会は、どう考えているのか、問いは、そちらに向いていきます。

投稿: | 2009年4月29日 (水) 17時57分

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