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2009年5月31日 (日)

言葉

外国語 いや異言かな 解釈は
 いくつかあれど 意味は納得

意味一つ 解釈合えば それでよい
 合わない時も 意味を優先

今日は聖霊降臨の日、教会の誕生日。「教会の誕生日」という言葉は説教の中でも語られました。

では、この日に何があったのか。それは使徒言行録2章1節~11節に書かれています。そこに、「ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)とあります。その意味は、他国の言語、あるいは聖霊の賜物としての「異言」を指すという解釈もあるようです。他国の言語が素直な意味かも知れません。しかし自分の知らない外国語を突然、話し出すということは、普通は考えられないことではないでしょうか。しかし、この「考えられない」という点に着目すれば、逆に理解できるのではないかと思います。それが意味と思いました。

また、別に異言という解釈もあるようです。異言については、ペンテコステ系諸教会では、今でも実際にあるという主張がされています。しかし、他の教会では、異言を語れるようにという勧めはされていないのではないでしょうか。異言を語れるようにという指導がなくても、キリスト者の言葉は、外の人たちには、「何を言っているのか、分からない」という一面があるのではないかと思います。肉と霊との対立、そして、理解の条件としての、両者の一致を考えた時、聖霊に感じて語る言葉は、聖霊を受けている人たちには「理解」できても、そうでない人たちには、理解不能と思われるのではないでしょうか。それが「異言」の意味だとしたら、それは納得のいくことと思います。もちろん、現実の異言は、教会の外に対してのものではなくて、教会の中のものでもあり、だから、異言には解釈が必要となります。パウロは、この解釈の必要性を指摘しているのですから、教会の中で語られるというものであったと思います。

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もったいない

ボールペン 替え芯最後 まで使う
 少し快感 大切なこと

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2009年5月29日 (金)

ベルジャーエフのこと

某図書館で、新刊図書のコーナーにあると思った『ベルジャーエフ著作集 Ⅱ新たな宗教意識と社会性』(青山太郎訳、行路社)を借りた。おや、ベルジャーエフの新刊書が出たのだろうかと思ったが、奥付を見ると、1994年の初版発行になっている。15年も前のものである。新刊図書ではなくて、新着図書のコーナーだったのだろう。

この著作集は、全11巻、別巻1の計画で、この本によると、その他、「Ⅳ 創造の意味 弁人論の試み」、「Ⅷ 共産主義とキリスト教(論文集)」が既刊になっていた。その計画の中に、「Ⅵ 新しい中世・現代における人間の運命」が含まれている。過日、と言っても、だいぶ前の話だけれど、行路社に問い合わせたところ、この計画の実現は困難とのことであった。「新しい中世」を、新しい訳で読む機会はないのだろう。

借りてきた本を読んでいて、大学生の時に読んだ感激を思い出した。何か引かれるのである。それは何なのだろうか。

ベルジャーエフは、自分は哲学者だと言っているが、哲学の定義をした時には、むしろ、神学者と同じ土俵に立っているとも言える。だから、彼は神学者だと言えば、やはり、それとも違うものを持っている。それは何か。それをもう一度、考え直してもいいような気がする。

哲学者にとって、宗教体験は不可欠の前提ではない。しかし、神学者にとっては、不可欠の前提であろう。もっとも、それを前提にしない神学者もいるかも知れないけれど、たいした仕事はできないと思う。その意味で、ベルジャーエフは神学の領域で仕事をしているともいえる。しかし、神学には、ベルジャーエフのような意識はあるのだろうか。その意識とは、端的に言えば、「意味の探究」への問いかけである。これが、彼を哲学者にしているように思う。

キリスト者にとっては、新生(義認)と聖化は、その存在の前提であると思う。しかし、それを、どれくらい反省しているのだろうか。

人間の心の要素としての知・情・意の観点から、聖化を反省してみれば、情については、聖霊体験の証しの中で、よく語られていると思う。意に関しては、再臨信仰への心の向け方の不変性を考えるべきなのだろうか。しかし、知に関しては、どうなのだろうか。聖霊体験について、知の観点から、どれくらい深みのある洞察が語られているのだろうか。この点の反省があれば、ベルジャーエフへの関心は新しく復興するのだろうと思う。

キリスト者に、「意味の探究」への旅を促しているのが、ベルジャーエフなのかも知れない。

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2009年5月27日 (水)

吉満義彦に関する論文

『東洋哲学研究所紀要』(第24号、2008年12月)に、氏家法雄氏(創価女子短期大学非常勤講師)が、「吉満義彦の人間主義論-近代批判とその神学的根拠(1)」と題する論文を発表されています。

全体は、「はじめに ①問題の所在-何故、吉満なのか。「近代の超克」をめぐる議論から ②吉満義彦の人と信仰 ③吉満の歴史意識 ④吉満の恩寵論 吉満における文化と自然と宗教 ⑤超越的内在論としての受肉のヒューマニズム ⑥おわりに」という構成で、今回(1)では、②までが紹介されています。続編が待たれます。

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2009年5月25日 (月)

第二の宗教改革

新と旧 旧がなければ 新もなし
 その原点を 再考せよと

旧捨てて 新のみ立てる 現状に
 いつしか新も 旧に見えたり

旧と新 論争点に 一致あり
 世界は動く 地域は知らず

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2009年5月24日 (日)

国技

外国の 力士活躍 歓迎す
 モンゴル力士 頑張れ連呼

モンゴルに 関心を寄す 日本人
 司馬さんはじめ 増えるといいね

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和歌

和より短 そう思いしが 和でもよい
 平和の和なり その願い込め

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2009年5月22日 (金)

海にいる 言葉の海に 泳ぎ行け
 言葉と対話 ゴール目指して

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2009年5月20日 (水)

武士道

命より 恥こそ悔やめ 武士道の
 切腹美学 今も続くか

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清掃

ちり多き 我が家は普通 その思い
 外に出たなら 吹き飛ぶ時も

「外に出」れば比較が生まれます。その時、自分が分かります。

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2009年5月18日 (月)

自分史

縁精査 自分史を書く その狙い
 換言すれば 自分探しへ

自分史を書く人たちがいる。なぜか。縁の精査のためではないのだろうか。因から果への移行(自己実現)のためには縁が不可欠である。その縁を考えるためではないのだろうか。

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2009年5月17日 (日)

矢内原忠雄

東京大学駒場博物館で、特別展「東京大学教養学部創立60周年記念 矢内原忠雄と教養学部」が開催中である。5月17日午後、展示を見に行った。そこで、初めて矢内原の肉声を聞くことができた。58分にも及んだが、全部、聞いた。これは、内村鑑三生誕100年記念として1961年3月26日、女子学院で行われた内村鑑三記念講演会での講演であった。

展示では、ノートや、『嘉信』のガリ版刷りなどがあった。

矢内原の東大教授辞職は、藤井武記念講演の内容が問題とされたことは、よく知られているが、展示では、「1937年12月、『通信』掲載の藤井武記念講演の言葉により、東大辞職を余儀なくされた」とあった。講演の内容は、『通信』にも掲載されていたのだ。

この『通信』は矢内原の文書活動の最初のものだが、彼は、辞職後、この『通信』を廃刊にして、翌年1月には、『嘉信』を創刊している。

この『嘉信』も、戦争の終局近くに、発禁の通告を受けるが、そのあと、『嘉信会報』というガリ版刷りの文書で活動を続けている。この『嘉信会報』が展示されていたが、小さな文字で、とてもきれいに書かれていた。驚きであった。

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2009年5月15日 (金)

やれること

やれること やるべきことを 速やかに
 生活変えよ 習慣にせよ

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薩長

薩長に ザビエルの影 今もあり
 倒幕の雄 絆あるかも

薩摩と長州にはザビエルの足跡があります。それと倒幕との関係は、ないかも知れません。
恐らく、ないと思います。

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万歩計

万歩計 買って試して みたものの
 動機が長く 続くだろうか

万歩計を使い続ける動機が持続するか、考える時があります。

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2009年5月13日 (水)

日比谷図書館

Rimg0264 壁の色 黒ずみてあり 図書館は
 若き日繁く 通いし所

新装で 生まれ変わらん その日まで
 休みつつあり 感謝を受けて

東京都立日比谷図書館(写真)は、今年の4月1日から休館。今年の7月に千代田区に移管され、改修工事を経て、平成23年春に「(仮称)日比谷図書館・文化ミュージアム」として開館の予定とのことです。

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2009年5月12日 (火)

千の風

「人は死んで無に帰しているわけではない。ふたたび自然のなかに蘇って別の人生を生きている。日本人の先祖崇拝、先祖供養がそこからはじまった。目にみえないご先祖(カミやホトケ)の前で身を慎んで生活するというモラルがそこから生まれたのだ」(『信ずる宗教、感ずる宗教』山折哲雄著、中央公論新社、47頁)

前半は、「千の風になって」の歌詞と同じことを言っているようである。後半は、著者の言い分もあるだろうが、先祖崇拝、先祖供養を、自分探しの中に位置づけることも出来るのではないかと、思う。

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再臨信仰

聖化道 歩む動機に 再臨の
 信仰ありと 先達教え

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自主独立

気風あれ 自主独立の 気風あれ
 毀誉褒貶に 流されずして

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ハビアン

ハビアンの 再考の時 宗教の
 批判と対話 棄教を超えて

諸宗教対話の源流を思う時、ハビアンが浮かび上がってくる。

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2009年5月11日 (月)

成功のカギ

成功のカギは日常生活の中にあると思う。日常生活の反省の中にあると思う。そこで生まれる数々の着想の処理の仕方の中にあると思う。これが分かれば、誰でもある程度の成功者になれるのではないだろうか。

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2009年5月10日 (日)

蛇と杖のマーク

最近、新型インフルエンザのニュースで、WHO(世界保健機関)がテレビ登場しています。その時、WHOの旗も映されます。それは蛇と杖のマークで、私は、これは、聖書にある、モーセが荒野で人々の上に揚げた青銅の蛇の記事と何かの関係があるのではないだろうか、と思ってしまいます。その蛇を見た人は癒やされたとあるのですから、保健、医学とも関連があります。

しかし、その連想は成り立たないらしい。なぜなら、WHOの旗のマークは、ギリシャ神話の医学の神アスクレビオスに由来しているからです。この蛇杖は、医の象徴として世界的に使用されているということです。既に、関連のインターネットで詳細な説明がされています。

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2009年5月 8日 (金)

例え話

断絶と 連続共に 言わんため
 存在類比 西田も指摘

イエスの例え話は、中世の存在の類比や西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と同じ真理の表現のように思われる。

例え話とは、直接性と間接性との統合なのかも知れない。言わねばならぬことを、そのまま言うことは難しい時、間接的に言う道がある。それが例え話なのかも知れない。表現とは、その意味では、例え話なのかも知れない。動機は、もちろん、直接性にある。それを如何に言うか、その方法も、内容と共に考えなければならない。間接性を度外視して語る時、自分も相手も、動けなくなってしまうかも知れない。福音を語って、拒否された時、自分の人格を否定されたように感じるという人もいる。間接性で、少しクッションを作った方がいいのかも知れない。自分のためにも、また相手のためにも。

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墓参り

墓参り 死者と語らう ひとときを
 忘れ給うな 今生きる人

日常に 死を覚えよと その行事
 汝は何者 気づき求めて

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白骨の進軍

白骨が などて進軍 その訳は
 復活にあり 牧師の言葉

「白骨の進軍」という言葉を使った牧師がいた。T牧師と覚えている。忘れられない言葉である。伝道の真髄を示していると思う。

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暗黒の中世

中世の 暗黒は何故 死を覚え
 排除の生を 拒否したからか

近世の 明るさは何故 死を排し
 人の限界 忘れた中に

生と死の 共在文化 その中に
 ポストモダンの モデルはあると

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偶像

主は無限 有限固執 偶像に
 途上とみなせ 否定の道を

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ホスピス

死を受容 排除の医学 反省を
 医師の盲点 尊敬の陰

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2009年5月 6日 (水)

ハビアンの謎

新潮選書『不干斎ハビアン』(釈徹宗著)は、ハビアンに関する詳細な情報を満載した貴重な本であると思う。

キリシタン時代に、『妙貞問答』と『破提宇子』という、キリシタンの擁護と批判の、全く逆の立場の書物を残した人物である。

なぜ、このようなことが可能なのだろうか。

そこで、カントの「純粋理性批判」を思い出した。形而上的な神に関しては、肯定も否定も、どちらの立場も、言えるのである。そこで、彼は神を要請するために、「実践理性批判」を書いたという。しかし、要請された神は、まだ不十分なのだろう。まだ、理屈の域に留まっているからだ。体験の域に入る必要がある。

ハビアンが、「純粋理性批判」の立場で、神を論じているのであれば、肯定も否定も、できるのであろう。だから、彼にとっては、『妙貞問答』と『破提宇子』は矛盾していないと言えるのかも知れない。

さて、宣教師たちの伝えたキリスト教の反発しつつも、日本で独自のキリスト教を展開した人たちがいたことを、我々は知っている。その人たちは、ハビアン同様、西洋流儀のキリスト教には躓いたかも知れないが、神体験があったので、それを否定することはできなかった。だから、信仰者として一貫した生を送った。ハビアンとは違ったところで、信仰を受け止めていたのである。

カトリック世界にペンテコステ・カリスマ運動が浸透していくのを、ハビアンの生涯を眺めながら見ていくと、その必要性が感じられるのである。理屈は体験への道しるべであり、理屈は、そのことを理解しなければならないと思う。宣教は、その体験へと招くべきであり、理屈で相手を負かすことを目的とすべきではないと思う。

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老い支度

老い支度 簡素モットー 身の回り
 気づかぬ人も 多いだろうが

ある程度の年齢になったら、人は誰でも老い支度をしなければならない。しかし、それに気づかない人もいるだろう。それでも、時は待ってはくれない。気づいた時は、もう手遅れということもあるだろう。

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生きる意味

生きる意味 問わない人も いるもんだ
 やがては消える その時知らず
 
それもまた 幸せなのか かも知れぬ
 うつにはならず 幸か不幸か
 
天使は、生きる意味を問うことはないと思います。だから、生きる意味を問わない存在は、あるいは天使のように幸せな存在かも知れません。

生きる意味を問うことは、不幸の意識があるからだと思います。そして、その不幸を克服しようという意志の表れなのでしょう。だから、生きる意味を問わない生き方は、天使的存在とは別に、自分の不幸を知らないという意味であり、それはまたそれで不幸なのかも知れません。

イエスの嘆きは、ここにあったのかも知れません。救いの道はある、備えられている。しかし、人は、自分の「不幸」を知らず、従って、その克服の意志も持たない。そういう人たちを前にして、イエスは嘆かれたのではないでしょうか。

恐らく、どうしようもないのでしょう。

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2009年5月 4日 (月)

無名のキリスト者

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネのよる福音10・16)

(解釈)「囲い」とは、教会、可見的教会のことであろうか。あるいは、自分の所属する教会と考えてもいいように思う。その教会の外にも、救われる人はいる、という意味なのだろう。包括主義を是認しているように思われる。同時に、その考えは死者にも及ばないだろうか。及ぶと判断して、実行している教派もあるが、この点は義論があるかも知れない。

さて、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12)という聖書は、排他主義の根拠と思われるが、それは、聖書全体を見た時には、包括主義と対立していない。そのように解釈すべきではないだろうか。

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再臨

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(使徒ヨハネの手紙・第一・3章2節)

(解釈)ヨハネにとって、「神の子」が何を意味しているかは、はっきりしていると思う。そして、再臨の時、自分がどうなるのか、まだ分からないという。この状態は、現在も続いていると思う。しかし、ただ一つ分かっていることは、御子との一致である。それは、今、「神の子」の根本的な条件と思う。だから、再臨は大きな出来事ではあるが、そこでも根本的断絶はなく、そのあとに希望を持つことが許されている、という意味なのだろう。「神の子」は、現在の生存の意味づけを、死後の中に根拠づけることが許されているのだと思う。

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2009年5月 3日 (日)

宇宙について

内村鑑三は、遺言に中で、「宇宙の完成」という言葉を残した。賀川豊彦は、宇宙悪の研究をして、本も残している。しかし、それらの宇宙は、科学者の言う、また最近の話題で言えば宇宙飛行士の言葉に使われている宇宙を意味しているのだろうか。いや、違う意味なのだと思う。科学者のいう宇宙に完成があるのだろうか。また、その宇宙に悪があるのだろうか。では、内村や賀川が言った宇宙とは、どういう意味なのだろうか。

人間を小宇宙という時がある。その時の、大宇宙は、科学の宇宙を指しているのかも知れないが、人間との関係で捉えられているとしたら、純然たる科学的宇宙とは別の意味、要素が込められているのかも知れない。そこでは小宇宙と大宇宙との関係など、興味あるテーマでもあろう。

さて、神の国を御国ともいう。ある本では、この御国を千年王国とする見解、図解があった。ということは、主の祈りの「御国が来ますように」は、「千年王国が来ますように」という意味なのだろうか。いや、いわゆる千年王国のあとの、完全な世界の到来を祈っているのではないだろうか。そして、内村や賀川の祈った宇宙とは、そんな究極的な完全な世界を意味していたのではないだろうか。

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