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2009年5月12日 (火)

ハビアン

ハビアンの 再考の時 宗教の
 批判と対話 棄教を超えて

諸宗教対話の源流を思う時、ハビアンが浮かび上がってくる。

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コメント

戦前と戦後で、その立場を逆転させた日本の知識人に元型にハビアンがいるのかも知れない。教団を離脱して、当時は、「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」を作ることは出来なかったであろう。であれば、「破提宇子」の立場しか残っていなかったのかも知れない。しかし、重要なことは、当時の状況である。信仰を表明して殉教するか、棄教して生き延びるか、その二つしか選択肢はない時、殉教の道を選択せよ、と言えるのだろうか。遠藤周作氏は、その道は自分に取れないだろうと言っていたと思うが、それは信仰がないからと言えるのだろうか。『沈黙』の司祭が棄教して、ハビアンも、棄教の理論を残した。それによって、当時のキリシタンたちは、転ぶことも一つの道だと考えたのではないだろうか。それは江戸時代を生き延びるためである。「破提宇子」は棄教をしやすくしたかも知れない。それで、いくらか良心の呵責に責められずに、「信徒」たちは、江戸時代を生き延びることが出来たかも知れない。そう思うと、ハビアンの棄教を責められなくなるのである。キリシタン時代の殉教者の列福があったけれど、課題として、我々に迫ってくるのは、あるいは棄教したハビアンなのかも知れない。そして、棄教した元「信徒」たちの信仰復興なのかも知れない。

投稿: | 2009年5月13日 (水) 10時01分

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